もんのすごい映画だった。いやホント、もんのすごいよ。
ハインラインの有名な原作を映画化したらしい。題名忘れたけどその原作はパワースーツが登場しガンダムに大いに影響を与えたそうな。でもこの映画にはそれが出てこないから原作の骨抜きなんだそうな。ぼくはハインラインにもガンダムにも何の思い入れもないんでとくにどうということはないけど。
銀河の向こうから人類に戦いを挑んできた昆虫生物。民主主義が滅び軍事政権に支配された未来の地球連邦は軍隊を組織して受けて立つ。軍隊に入って地球のために戦うと選挙権を持つ市民の資格を得られる。そうじゃなきゃ一般民。歩兵隊に志願した一人の若者がだんだん戦いの経験を積み出世し、パイロットになった元恋人や情報部に入って将校になった親友らともからみながら昆虫軍団を殲滅する物語。
と、あらすじを書くとなんだかくだらなそうでしょ。実際くだらないのよ、これが。くだらないけど、異様なパワーと戦争への屈折した態度がおもろいんですわ。
異様なパワーの最骨頂は昆虫生物のCGと戦闘シーンの濃密さと残酷さ。とにかく昆虫生物のCGはよくできていて、これ観るだけでも価値あり。ほとんど凶暴な口だけでできた昆虫の動き、大型の甲虫のダイナミックさ、そしてそれらが洪水のように画面を埋め尽くす場面のエネルギーたるやすさまじい。そして手に汗握る戦闘シーン。もう心臓バックンバックンよ。さらに、なにしろ昆虫だから血も涙もない。虫けらが人間を虫けらのように殺戮する。胴体真っ二つ。首だけちょんぎられる。はらわたダラダラで死ぬ。脳みそ吸い出される。ちょっと子供には見せられないね。
そして戦争への屈折した態度。物語の中身だけをとると、やけに戦争万歳なのね。頼りなかった主人公が両親の反対を押し切って軍隊に入り、訓練中に故郷が攻撃され両親を失う。その復讐心が彼を戦争に駆り立てる。教官は厳しいけれど本当は優しい。仲間とは友情を分かち合い、彼はだんだん精神的にたくましくなっていく。戦闘で恋人や恩師を失ったりもするけれど、最後にはにっくき昆虫軍団の中枢を壊滅する。このドラマがかなりの説得力で描かれる。物語としては漫画みたいに典型的なカタチで進むとはいえ、よく練られた脚本でかなり引き込まれるストーリーだ。
そうした物語の随所に軍隊勧誘らしき映像がちりばめられている。これがインターネットの進化形みたいな見せ方でインタラクティブになっているらしい。そしていかにもな誘い文句で入隊を勧誘するの。説得力ある軍隊物語をみせつつも、随所でこの勧誘映像が出てくると、物語の方から観客の気持ちを一気に引き離し客観視させる。いままで主人公に自己同一化して興奮したり感動した気持ちを一気に白けさせ、なーんか戦争ってバッカみたーい、な気持ちになる。
だから戦争ってバカでしょうと主張する反戦的な映画に思える。理屈ではそう思えるんだけど、物語の方があまりにパワフルなんで、全体の印象としては好戦的にも感じてしまう。なんだかそうした妙に屈折した感じが面白い。この印象は「プライベートライアン」によく似ていて、両方とも戦争万歳にも戦争反対にも使える素材だと思う。
映画は、あるいは物語は、ある題材を徹底的に描くと、それに対して肯定も否定もしない。ただ「こういうものだよ」と提示しかできないんじゃないかと思う。ヒューマニズムもアンチヒューマニズムもどん欲に呑み込む。それが映画なんじゃないか。そんなこと言って君は戦争に賛成なのか、だって?わしは戦争には賛成の反対なのだ。それが人間というものなのだ。
この映画、他にも独特の未来観とか、えらくアラが多いとか、いろんな意味で面白い。2500円くらいの価値は軽々あるね。
期待しないで観たら面白かった、と誰かが言ってたので期待してみたら、そうでもなかった。とは言え、映画館で観ていれば入場料分は面白がれただろう。十分合格点の映画。
ボストンからカリフォルニアへ4WD車に荷物を載せて引っ越す途中の夫婦。砂漠を渡る道路でクルマが故障し、妻だけ通り掛かりのトラックに乗ってドライブインで待つことになった。故障が直りドライブインに行ったら妻はいない。彼女を乗せたトラックを見つけて問いただしても、そもそも妻を乗せてないとシラを切る。警察にも見離された男は一人で妻を探すのだが・・・
砂漠の道路で見知らぬクルマにひどい目に遭わされる、と聞くと誰もがスピルバーグのデビュー作「激突!」を思い浮かべるだろう。ぼくは子供の頃テレビで見て、猛烈に面白がった記憶がある。主人公のクルマを執拗に追いつめるトラックが、運転手が顔を見せないこともあって不気味で仕方なかった。最後まで相手の顔は見えないんだよね。
出だしは似てるけど、この映画の場合は最初から相手の顔が見えている。途中でボス格の男の家庭も見せられ、おウチではけっこういいお父さんだったりするのもわかる。そこが逆に現代風なのかもしれない。普通の人間が犯罪に走る。あるいは、アメリカの田舎町の共同体に潜む不気味さ、とか。ただ、奥さんや子供まで見せちゃうと、あまり憎たらしくなくなるんだけどね。
最後のカーチェイスはなかなか見せてくれた。映画館で観たかったね。
「世界中がアイラブユー」のウディ・アレンの新作。前作ではミュージカルに挑戦してたけど、今回はもっと実験的。なんというか、メタフィクションというのかなあ、物語の中にまた虚構世界があって、それが物語の方に侵食する構造。筒井康隆みたいな。原題も「Deconstructing Harry」で、直訳すると「ハリーを脱構築する」?難解なようで、実際そういう内容なの。現実とギリシア演劇世界を交錯させた「誘惑のアフロディーティ」の姉妹作と言えるかも。アレンはたしかもう60歳を越してるんだけど、老いて円熟するどころかますます走ってる。
売れっ子小説家のハリー。私生活では女にだらしがなく、三回結婚してるし、すぐに他の女に惚れちゃう。しかもそうした私生活をそのまんま小説にしている。小説家としてもなんだか情けない。と、物語としてはそんなもん。
でもこの映画、カッコいいの。出だしからしてすでにカッコいい。ファーストシーンで、女がタクシーを降りてある家に入るんだけど、それがジャンプカットとリフレインを使って、つまり音楽で言えばレコードの針が飛びながら同じフレーズを何度も何度も聴かせるみたいな編集になっている。しかもBGMはビーバップ風のジャズで、まるでサックス奏者のインプロビゼーションを映画に仕立てて見せられてるような印象。カッコいいんだ、とにかく。
続いて、いきなりシーンはのんびりした郊外でのピクニックの場面になる。姉妹とその夫たちを中心とした家族がバーベキューをしている。でも姉の夫と妹は不倫関係らしくこっそりエッチしてるわけ。
その後、その場面は主人公が描いた小説の世界であり、しかも自分自身の体験をほとんどそのまま描いたものだとわかる。主人公はウディ自身が演じてるんだけど、小説の世界では別の役者になっている。小説にするにあたって、人物の名前やキャラクターを少し変えたり、現実の複数の人間を合成して小説中の人物に仕立て上げたりしている。だから別の役者なわけ。
映画が進むと、主人公を取り巻く人間達が次々に出てきて、さらに彼らをモデルとして描かれた小説世界も次々に出てくる。そしてだんだん小説世界と現実世界が交錯してくるわけ。自分をモデルとして創造した小説中の人物が主人公に話しかけてきたり、姉と二番目の妻を足して二で割ったような女が話しかけてきたりするの。そこいらあたりが「ハリーを脱構築」しているわけね。
そしてまた、さっき書いたジャンプカットの編集があちこちでなされていて、現実と小説世界の交錯も含めて、全体を斬新な映画に見せている。普通のハリウッド映画が当たり障りの無いポップスだとしたら、この映画は前衛ジャズ。なのにちっとも難解じゃなく、ちゃんとコメディとして楽しく見せているのがウディらしい。
映画ってだいたいこうなってこうきて最後はこうなる、てなものが当たり前になっているけど、本当は自由なんだよな。ってことをあらためて教えてもらった感じ。そしてそんな映画の冒険を、老いてますます続けているウディは素晴らしい。2500円つけたけど、安すぎかな?ただ、映画としては「世界中がアイラブユー」ほどぼくのエモーションを高鳴らせなかったから、そこがちと残念。
「CURE」の黒沢清監督の新作。「CURE」は途中まですごいすごいと思ってみてたら、最後の方でなんじゃこりゃ、になった。でも「ニンゲン合格」は最初から最後まですごいすごいと観ることができた。映画としても大合格、ってとこ。
あらすじ的に書くと、14歳の時に交通事故で昏睡状態になった青年(西島秀俊)が24歳で突然目覚めると家族はバラバラになっていて、家と土地だけが残っていた。てなことになるんだけど、そのあらすじから想像する映画とはなんだかちがう出だしで、そこがまずなんだかカッコいい。いま書いた映画の設定を、短いシーンの積み重ねで観客に理解させる。短いシーンだから、設定が順不同で理解させられていく。なぜ昏睡したのだろう、と思っていると事故の相手が出てきて、ああ交通事故か、とわかったり。10年も寝てると世の中わかんなくなるよな、と思ってるとビデオや雑誌で10年分の世の中を学んでる場面が出てきたり。
やがて退院する。退院の時、中年の男(役所広司)が迎えに来る。父親なのか?いやそうでもないようだな、と思ってると父親の友人で土地を借りて釣り堀をやってることがわかる。以後、父親はこうで母親はこう暮らしていてあと妹もいる、などなど主人公の背景がだんだんうまくわかっていく。なんというか、そのわからせかたがいいの。順序立ってなく、説明的でなく、でもうまいこと理解させられる、って感じがいいの。
青年の家は昔ポニー牧場をやっていた。青年はそれを再建しようとする。なぜ再建するのか。それもだんだんわかるんだけど、牧場再建は家族再生だった。それが見えて、ああ、これは家族についての物語か、とわかる。
そのわりには、青年は家族をそんなに大事に思ってないようにもみえる。象徴的に友人の両親の離婚がちらりと語られるんだけど、それについても友人もその母親も淡々と離婚の事実に接している風に描かれる。この映画の中では家族に関してみんな冷めた視線であることがそれでわかる。そしてふと、観ているぼくも「家族というものに本当はおれも冷めているかもしれない」と思っている。ここいら辺は「CURE」と似ている。
冷めていながら青年はまた家族再生にエネルギーを注ぎ、牧場を背に立つ父親を見つめながら涙さえ見せる。観ているぼくも「本当はおれも家族に冷めているけど涙しもする」と妙に共感してしまう。そうなんだ。「家族」って大事じゃないけど大事なんだ。
青年の家族再生の作業は思わぬカタチで完成される。完成されると同時に、家族はまた散っていくのだけど、ある瞬間にひとつになったことだけはそれぞれの胸に残る。青年はそれだけで満足できたらしい。
だが映画はそこでは終わらない。青年は再生のために必要だった牧場を破壊する。きっかけは別の人間による破壊だったのだけど、自分が一生懸命再建した牧場の柵をのこぎりで切る男に最初は「なんてことするんだ!」と怒るくせに、途中から自分で破壊し始める。一度再生は果たせたのだから、いまはむしろ破壊すべきなのだ!とばかりに自分でのこぎりを入れる。「おれはどっかから来てどっかに行くんだ」と言いながら。
映画の本当の終わりに至り、この物語は「家族について」の物語を越え、「生きることについて」の物語に大きくグレードアップする。青年は自分の存在を、生きていることを確認するために「家族再生」に取り組んだのだ。存在を確認できるのなら、他のことに情熱を注いでもよかったのか?いや、やっぱり他ならぬ「家族再生」でなければならなかった。なんでかって?だって「家族」は、人間がこの世に存在する、人間が生きていく、原点じゃないか。家族再生を果たせたからこそ、青年は「ニンゲン合格」なんだ。
「あ、春」を観て、それから「ニンゲン合格」を観て、ぼくはどっちも同じくらい深く深く深く感動した。感動したばかりか、何かとても大切な重要なことを言われた気がしている。「家族」の取り扱い方、描き方は90度くらいちがうけど、どっちにもぼくは共感したし、ぼんやりとしかとらえてなかったことをはっきり認識させてくれた。「これからの人生を歩むうえで大切にしたい二つの映画」に一度に出会った。
ぼくたちは「家族」について考えたり見直したり悩んだりしなくてはならないと思う。だって、いま日本の家族は戦後最大の、ひょっとしたら有史以来最大のピンチに立たされているのだから。家族というものがいまほど揺らいだり自信がなくなったりしている時代はないんだ。もちろんこんなことを言うのは、いまのぼくが「家族」をはじめたばかりだからだろう。でも本当に、家族ってのははじめてみると、いろいろと当惑してしまう。そしてそこにはそれこそ「生きること」の原点があると知る。
日本はいま例えば「会社」というもの「政治」というもの「労働」というもの、いろんなことがワケわかんなくなっているんだけど、いちばんワケわかんなくなっていて、そしていちばんなんとかしなくちゃいけないのは「会社」より「政治」より「家族」でしょう。
だからいま、映画を含む物語は「家族」に正面から取り組まなくてはいかんのよ。
ずいぶん前に完成してたんだけど、試写会を見た東宝と松竹が争奪戦を展開した後東宝が勝ち、わざわざ正月第二弾までとっておいたそうな。てなことも知ってたんで、けっこう期待して観に行ったの。
日比谷のみゆき座でやってるというので行ったら、「踊る大捜査線」に占領されてた。シャンテシネに変更になったんだと。東宝の情熱にもかかわらずお客さん入らなかったのねー。
内容的にはなかなかよかったけど、争奪戦を繰り広げるほどのものかどうかは疑問。
前半でやや退屈した。シナリオの練りが足りないと思う。のど自慢の出場に情熱を燃やす何人かが描かれるんだけど、やや不完全燃焼。もっと描かないと伝わらないよ、ってことが多かった。けっこう泣いてもおかしくないセリフが出てくるんだけど、その言葉に込めた人物たちの気持ちが今一つ見えない。だから泣けない。
それでも、最後の次々に歌うクライマックスはいやおうなく盛り上がった。唄はすごいね。唄の素晴らしさに免じて映画も許す、みたいな。
かなりサブのストーリーである、北村和夫演じるおじいちゃんと孫のエピソードがよかった。いちばん描き方薄いけど、いちばん感動。少ない場面で、どんな孫でどんなおじいちゃんかがよーくわかった。一方、肝心のメインキャラである室井滋の演歌歌手と大友康平の焼鳥屋の背景が見えなかった。室井滋はプロなのになぜのど自慢に出たいのか。大友はダメ亭主なのになぜ松田美由紀演じる奥さんは夫ののど自慢を大応援するのか。
その辺をもっときちんと描いたシナリオにしておけば、もっともっといい映画にできたと思う。そういう残念さもあるけど、とにかく唄には泣いちゃうんで、2000円はあげられます。はい。
映画の最後に「ビッグショー」という映画の予告編がくっついてた。室井滋演じる演歌歌手がハワイ巡業で巻き起こす珍道中、らしい。「のど自慢」がヒットする前提で企画されたんだろうけど、ヒットしてないわけで、妙にむなしかった。取らぬ狸の皮算用、って感じ。
イギリス映画復興の火付け役。この映画のヒットに「ブラス!」も「フルモンティ」が続いたわけで、スタッフや出演者も重なったりしている。公開時に斬新なポスターが貼られていて、映画のポスターの仕事もやる身としては気になっていた作品だった。
この映画の特徴は、たぶん20世紀末のどこの国の若者にも共感されそうな登場人物たちのイカレポンチぶりにある。ろくに定職にも就かず、クスリに溺れ、それがダメな感じも自覚しつつまっとうな道を歩めない若者たちが主人公。渋谷にたむろす日本の若者でもほんとにクスリやってるやつは少ないだろうけど、そうしてしまう心情は理解できるだろう。だってもう二児の父もどこか共感しちゃうんだもん。おれってだらしないなあ情けないなあだいたい無力だなあ、でもなかなかしっかり生きれないなあ。20才前後なんてそんなもんだ。20才でしっかり生きてるやつの方が不健全だと思う。ダメな若者たち、だけどなんだかいかしたやつらを描いた映画。
そうした大前提にある魅力もさることながら、この映画はクスリでぶっとんだ意識を幻想的な映像でユニークに描いてるのも面白い。クスリやってるとたぶんこんなふうに世界が見えちゃいまーす、を楽しく映像化している。ほんと、笑っちゃうよ。
この映画、舞台はなぜかロンドンじゃなくエジンバラなんだよね。イングランドじゃなくスコットランド。この二つの国の関係はいまだによくわかんない。主人公は人生やり直すためにロンドンに移り住んだりする。エジンバラはダメな若者の住むとこで、ロンドンは前向きな場所なの?うーん、よーわからん。
TSUTAYAが少し前からレンタルDVDをはじめた。プレイヤーも貸してくれるので試しに借りてみた。さすがに画質はいい。これを見ちゃうと、ふだんビデオで見てるのがいかに画質の悪い映像なのかがわかる。テレビのサイズに合わせて画面を選べたりもする。パッケージが小さいのもいいしね。たぶん、あと数年のうちにビデオはDVD に取って代わるんだろう。人類はすごいや。
ジョン・グリシャム原作、コッポラ監督の法廷物。マット・ディロン演じる学校出たての弁護士が、裁判で正義を貫こうとがんばる。
法廷物はけっこう好きなつもりだったんだけど、最近面白かったためしがないなあ。なぜだろう。
ひとつは、プロットに驚きがないせいじゃないか。練りに練っての脚本じゃなきゃ、法廷物はつまんないと思う。基本的には法廷で弁護士がしゃべるシーンが主体なわけだから、ロジカルな面白さがないと、ね。この映画は保険会社の悪を告発することに重点が置かれていて、その分驚くような展開はなかった。
それより気になったのが、主人公のモラル。正当防衛とは言え殺人をしたのに、ヒロインに罪(最終的には起訴されないけど)を背負わせている。いいのかよ。
アメリカ映画の「正義」はわからないことがたまにある。どこか「おれが正しいからその正しさの前では小さな不正は気にすんなよ」みたいなところがあるんだな。はっきり言って、わがままだと思うんだけどなあ。
よかった、二つ目は3000円。日本映画じゃないのがなんだけど。
これ、「ブラス!」などと同じくイギリス映画だと聞いてたんだけど、最初の20世紀フォックスのクレジットはなぜ?
まあでも、イギリス映画。シェフィールドの街が舞台。「ブラス!」と似てるのは、重工業がさびれた街の物語なんだな。さすが労働党政権。
工場閉鎖で失業した男。妻にはとっくに見離されて離婚。ひとり息子の親権めぐっていがみあう。養育費を払わないと息子と会えなくなる。なに?男のストリップショーって儲かるの?よっしゃやるぜい息子と大手を振って会うために!仲間を集めろ!てな話。
というわけでタイトルの「フルモンティ」はずばり!フリチンのこと。映画はラストでフリチンになる瞬間を目指して走っていく。こういう、物語の目標が明快な映画はいいね。それだけで商品価値は高いし、そのうえその目標がフリチン!商品価値はいやおうなく高まりますわい。
あとは主人公をはじめ、フリチンになる男達それぞれの物語を肉付けしていけばいいわけだけど、それがまたよくできてる。まずフリチンになることのドキドキとか情けなさとかは男ならよーくわかるんね。デカいやつに驚いたり、デブの男が自信なさ気だったりするのは、ホント、誰しも共感するんじゃない?そして、不況を背景にしていることも、平成の日本人にはこれまた痛いほど共感されちゃう。妻に失業を隠してた工場長なんて、きっと似たやつは日本でもそこいら中にいそうだ。
いろいろあって、最後のストリップショーがやけに明るいのもいい。彼らにとって、フリチンになることは、金のために仕方なくやるんじゃなく、能天気な憂さばらし。男のプライドを投げ捨てるんじゃなく、男のプライドを取り戻すために裸になるわけ。
「ブラス!」もそうだったけど、いまのイギリス映画の描く感覚はどこか日本人と相通じあうところがある。別の見方をすれば、こういう沈滞した時代の映画の作り方を学べるんじゃないか。いや、すでにさえない主人公が何かで自信を取り戻す物語は「Shall We ダンス?」をはじめたくさんあるね。お互い元気出そうね、イギリスさん。
いきなり300円で、恐縮しちゃうなあ。でも訂正しないぞ。
言わずと知れた眉村卓の名作ジュブナイルの映画化。とかエラそうに言ってぼくは読んだことないけど。でもぼくらの世代は70年代にNHKで放映された「少年ドラマシリーズ」でも映像化された作品として思い入れがある人が多いだろう。ぼくはこっちもなぜか見ていない。「タイム・トラベラー(時をかける少女のこと)」はしっかり見て、はっきり記憶してるんだけどね。
監督の小中和哉も、脚本の村井さだゆきもほぼ同世代。当然、少年ドラマシリーズをはっきり意識して物語を練り上げたんだろうけど。
これはパラレルワールドの話。そしてこの映画ではその多次元宇宙を主人公達の空想の世界として解釈しているようだ。それ自体は東洋哲学みたいで面白くていいんだけどね。
でもまず、その複雑さをじゅうぶん説明できていない。簡単に言えばいまひとつよくわからない。いくつもの世界が出てくるんだけど、それぞれの関係がなんだか見えて来ないんで、わくわくしない。SFの複雑さをうまく観客に教えながら物語を運ばないと、ついてこれないよ。「タイムリープ」を見習え。あんだけ複雑な時間の組み替えを、ちゃーんとわかるように進めていくじゃないか。
それといっちばんイカンのはラスト。いくつもある世界はある意味で主人公の空想の産物なんだけど、そういう物語の場合、最後はもといた現実に戻らんとまずい。現実逃避になっちゃうもん。でもこの映画のラストは現実に戻らない。中学の時に自殺して死んじゃった男の子を空想の世界で復活させた主人公は、もといた世界の別の男の子から「好きだ」と告白されたのに、空想の世界を選んじゃう。
思春期の頃、誰もが心の中ではぐくむ自分だけの別世界の中に彼女は逃げ込んじゃった、と解釈されても仕方ない。ティーンの女のコに、現実はいろいろつらいけど立ち向かおう!と勇気を与える物語になってない。それでジュブナイルと言えるのか。
SFXの情けなさは「タオの月」ほどではないけど、まあしょぼいのはしょぼい。こういう映画で特撮が情けないと、物語が説得力をもって迫ってこない。そんなこんなも含めて、300円。しょっぱなからこんなんじゃ、悲しいぜ。