97/10/6「マルタイの女」
ロードショーで観た。伊丹映画は「お葬式」以来。ひどかった。あまりひどいんで、邦画MLで「マルタイの女をけなしちゃう」のタイトルで投稿。以下はその記事。
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何がイヤかって、宮本信子がイヤだった。
もー、ひどい。フケたとかシワがとか言う前に、演技がひどい。もー観てらんない。学芸会みたい。少し良く言えば舞台の芝居を映画でやってるみたいな。演技がひどい上にやっぱり顔がひどい。「女優が殺人を目撃して証言するまでの物語」なんだからその女優が魅力的じゃないと。だもんで、例えば彼女を守る村田雄浩が「あなたのファンなんです」ってのも無理を感じました。そんな物好きいねーだろって。
演出もなんか手抜きじゃないのかなあ。
登場人物三人がからむシーンがあるとして、カメラは三人がフルショットで入る構図で固定され、ずーっと動かない。カットも割らない。舞台じゃないんだからと。あるいはテレビみたいだなーと。それぞれが笑ったり怒ったりしても、そのエモーションが伝わってこない。なんか各シーンがぼよよーんとのぺーっとしてる。
例えば、主人公の飼ってた犬が殺し屋宗教集団によって彼女の留守中に殺される。そこへ主人公が帰って来る。観客は「あの犬は死んでるんだろうなー」と思って観てる。どんな残酷な殺され方してるんだろう、主人公はどうやってそれを発見するんだろう、とそこにサスペンスが生まれるはず。なのにそんなシーンも引きの絵でだらーんと撮ってる。そうするとサスペンスしない。あーそうですね、やっぱり殺されてましたねと。なんかこー、もう少しドキドキさせようとかしてほしい。
他にも、悪役の宗教集団の描き方が明らかにオウムを模しているのに類型的でうすっぺらだし、せっかく「舞台で殺されるかもしれない」というシチュエーションを用意しといてそれがサスペンスしないし、最後にみょうに中途半端に無意味にメタフィクションして終わるし、とにかく全体にうす味。ぺらぺらに薄い。と思いました。
思うに、伊丹氏は監督やるべき人じゃないんじゃないでしょうか。この映画、企画性的にはおもしろそうで、だから観に行ったんですが、シナリオと演出、とくに演出でつまらなくなってる気がしました。企画だけやればいいのに。「マルサ」や「たんぽぽ」では演出力的にはどうだったんでしょう。
けなしてばかりもかわいそうだから少しいいところも書くと、役者がいい。西村雅彦と村田雄浩がいいし、津川雅彦もいい。江守徹がまたいい味出してる。意外なことに伊集院光がいい。でもそうしたわき役陣の良さを、宮本信子がずかずかとかき消しちゃうんだけど。
企画協力に三谷幸喜の名前がクレジットされてたけど、何を企画し協力したんでしょう。まあ、優れた劇作家が映画に関わればプラスに働くとは限らないんだけど。(本編の前に「脚本と監督三谷幸喜、ラヂオの時間」の予告編が流れたんだけど、ひょっとするとどうしようもない映画なのでは?と根拠なく予感しました)
あと面白かったのが、月、火の6:15からの回は、外国人の観客のために英語字幕入りなんですって。ぼくの前にヨーロッパ系のおばさん二人が座ってて、けっこうウケてました。ぼくの17倍くらい笑っていた。日本映画観て日本人のぼくはシラけてるのに外国人は笑ってる。これは面白い経験でした。
東宝の仕事(「リング」と「らせん」のポスター)を今やっていて、宣伝部の人から試写会の案内をもらったので観に行った。その感想を邦画MLに投稿したので、以下はそれをそのまんま。
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境です。「ラヂオの時間」の試写会に今日行ってきました。
結論から言うと、面白かった。十分に存分に面白かったです。
ぼくは舞台の方は見ていないので比較はできませんが、成功した舞台を映画にしたって成功するとは限らないよね、という視点でも成功していると思いました。舞台をそのまんま映画にしたんじゃありえない構成が多かったから、けっこう脚本を映画向けに再度練ってあるんじゃないでしょうか。
ちゃんとねえ、映画として演出してあるんですよ。ぼくは舞台みたいに引きの絵でセリフのやり取りでみせちゃってるんじゃないかと危惧してたんですが、そんなことはなかった。ちゃんと場面場面にふさわしい画面の切り取り方や、カメラの動かし方が計算されていて、セリフ以上の面白みを映画的に引きだそうとしている。ついこないだ観たから引き合いに出すと、「マルタイの女」よりぜんぜん映画してた。あっちの方がぜんぜん平板だ。
さらにちゃんとねえ、映画的にクライマックスに向けた盛り上がりもありました。ぼくは映画には基本的に終盤に向けてのエモーションのエクスタシーって欠かせないと思っているんですけど、しっかりそれがありました。しかしそれは舞台の段階で元々あった盛り上がりなのでしょうけど。
もうひとつ、大真面目に映画に取り組んでいるなあと感じたのは、「大作ばかりが映画じゃないぞ」というメッセージが明らかに込められてる点です。そういうようなことは登場人物達も言うし、またこのラヂオ局から出ない(実際は一部出てるんですけど)物語でも、なおかつおそらく一億円もかかっていない製作費でもぞんぶんに面白い映画だぞ、と映画の内と外で二重に主張しているようでした。ホントに面白いシナリオをホンキで映画にすれば、少ない予算でも面白い映画はできるんだ、大切なのは作り手の強い意志なのだ、と映画そのものが大真面目に熱弁しています。そのことは感動的でさえありました。
試写で観たからネタバレしないように書いたつもりで、だから改行しなかったけど、そこんとこどうなんでしょうか。
ま、以上ね。
新宿で仕事を終えて、時間が空いたんで「東京日和」を観るつもりだったんだけど、4時15分の回の20分前に行ったらすでに立ち見だと言われた。けっこう話題になってるわりに小さな小屋でやっているのがイカン。うまく興行しろようまく。
仕方なく他の映画を探した。で、「バウンスkoGALS」。こういう時に日本映画を選んでしまうのも、ぼくの邦画への意識の高まりのせいだな。
以下、邦画MLに投稿した文章をそのまま載せる。さらに、この映画に関してはMLにYOSHIDAさんという方が先に投稿していて、それを引用しながら書いている。だから、その引用もとの文章もここへそのまま掲載しておく。またぼくの文の中にも引用部分へリンクをはっている。こっちに戻ってくる時は、ブラウザのバックボタンを使ってね。
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新宿のピカデリー2で「バウンスkoGALS」を観ました。
この映画には悪いけど、積極的に観ようと思って観たわけではなく、たまたま新宿で時間があいて、ちょうどいいのがこの映画だったから。
ピカデリー2ってちょっとやる気のない小屋で、劇場のカタチが変だし、売店もなくてポップコーンを買うには係員に言って隣の新宿松竹のものを買うことになる。名画座ならともかく、ロードショー館がそういうことでいいのかと思いました。次回作は雨宮慶太の「タオの月」で、その次は黒澤清の「CURE」。両方とも予告編ではおもしろそうなのに、なんだか気の毒です。
あと、松竹系の邦画ってものすごく久しぶりだったんですが、予告編の前に「松竹シネクラブ」とか「大船なんとかランド」などのコマーシャルフィルムが流れまして、それがあんまりダサいんであきれました。「寅さん特別篇」「新・サラリーマン専科」「虹をつかむ男2」の予告編が放つ鈍くさそうな臭いもあいまって、「古いもんをズルズル引きずってる松竹」のイメージを増幅している。まるで「寅さんが好きだというのが恥ずかしくなる空気」を松竹自らが製造しているようです。
以下、YOSHIDA Naohiroさんの[cinemajap.700] 「バウンス koGALS」は社会派、を引用しながら明らかにネタバレします。文章長いからね。
>
●ただし話が解って来るまでの最初の方、10分か20分かはやけに退
> 屈だし、それ以降もなんか正論だけど疲れるみたいな話が結構あっ
> て、これを面白いと思うのはやっぱりある程度部外者なんじゃな
> いかなという気はします。
最初がやけに退屈なのは、ホントにそうでした。三人の主役の女の子の背景を紹介しながらコギャルの生態を描くんですが、これが冗長で。コギャルの会話なんてそんじょそこらに転がってるから面白くもないし、描き方が「トゥナイト」みたいでちょっと不愉快だった。
>
●ストーリーが解りやすいだけでなく、友情あり、団塊世代のヤク
> ザとの渡り合いあり、一晩のタイムリミットがあるのでスリルも
> あり、結構入れ込んで見られるでしょう。
これもその通りで、話が転がりだしてからは、そこそこ映画として面白いストーリーになっています。地方の非コギャルがNYに旅立つ前に渋谷に寄ってコギャル体験をする(つまり援助交際によりお金を稼ごうとする)。その際に二人の東京コギャルの助けを借りる。つまりこれは非コギャルが東京コギャル異空間を旅する一晩の冒険物語なのでした。あるいはコギャル一家にふらりとやって来た非コギャルを軸とした仁侠股旅物か。彼女の目的である「NYでの生活費を一晩で稼げるか」のサスペンスを観客も共有できるので、多少はハラハラできる。
でもやはりYOSHIDAさんの言う「なんか正論だけど疲れるみたいな話」がそこここで疲れさせます。親分肌のジョンコのキャラクターには魅力はありますが、彼女がヤクザ(役所広司)にとうとうと援助交際の正統性をぶつあたりは、いかにもオトナに教わった論理でツマラナイ。結局はふぬけた論理なんだから、どうせなら思いっきりふぬけたことだけ言った方がまだよかったのに。ジョンコにあんなこと言わせちゃうところに「ぼくたちは君たちの理解者だよー」と製作者がおもねっているのが見えてイヤだった。
この「理解者だよー」の姿勢を代弁するのがヤクザ(役所広司)で、ふぬけた論理を小生意気にふりかざされてもぶん殴ったりはしないし、ジョンコが約束破ってもぶん殴らない。この映画はねえ、援助交際するコギャルに明らかに「それはやめた方がいいよー」と言いたがってる。でもぶん殴らないでやさしく諭そうとするんですね、いちいち。それがイヤだった。団塊の世代が親として怒らないからコギャルが援助交際に走るんだよ、ヤクザがぶん殴らなくて誰がぶん殴る?と、製作者に言いたくなりました。
>
●しかし日経の記事にもありましたが、なんか団塊の世代と若者は
> こう目的は違うけれども何かにかける熱意みたいなもので繋がっ
> ているらしい。私ら新人類の世代は救われませんね、この映画で
> は。
ここが最大の欠点だと思うんですよ、この映画。「繋がっている」のは団塊の世代の思い込みで、彼女たちから見たら団塊も新人類もただのオヤジのはず。インターナショナルなんてそんな唄の名前を聞いたことすらないでしょう。「ぼくたちは君たちと、つながっているからね、理解しているからね」と言いたがっているのがむなしくていやらしかった。団塊の世代が理解者ぶって出てこなけりゃもう少しいい印象になったのに。いちばん醜いオヤジが官僚だってのも、底の浅い社会批判を感じたし。そういうことしたがるから、団塊の世代ってイヤなんだなあ。
>
●3人の主人公もちゃんと性格がはっきり分かれている。
確かに、登場する若者たちのキャラクターはそれぞれ個性的かつ魅力的に描かれていました。主人公の3人には確かに現代がそれぞれ集約されている気がしたし、あとぼく個人的には渋谷の街であやしいスカウトの仕事をするサップ(村上淳)も好きだった。それなりにスジを通そうとしている感じが。へたな役者が演じるとただの情けない男になりかねないところを、好感を感じさせるのは役者の魅力なんだろうな。(この役者、UAの夫なんですってね)
まあ、総括すれば、ダメな映画ではないけれど、惜しい。殺伐とした時代の中で、日本に嫌気がさして旅立とうとする女の子、日本でそれなりにたくましく生きようとする女の子を描いた、そんなに悪い話じゃない(たくましく生きる=しょせん援助交際で金稼ぐこと、ってのが腹も立ちますが)。団塊の世代特有の思い入れ、思い込みがその印象をマイナスに引っぱってしまいます。学生時代に団塊の世代から飲み屋で「おれが学生の頃は機動隊に石投げたもんだ」と説教された経験を持つ新人類としては、それがとくにマイナスだなあ。
〜高級にしようとして空振り〜
これから、感想文に上のようにタイトルを入れることにする。
これも邦画MLに投稿したものをそのまんま。
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うーん、ぼくにはイマイチでした。高級な映画にしようとして空振り、という印象です。
最初にこの映画のメインの舞台である「ベランダ」が登場します。そのつくりは、アラーキーの写真集に出てくるベランダが忠実に再現されており、ぼくは奥さんが亡くなるまでの写真集を立ち読みして本屋で涙ポロポロしたことを思い出しました。
それに続いてはじまる回想の冒頭で、会社員時代の仲間がそのベランダでダベるシーンがあり、その背景が暮色に包まれているのですが、その背景がセットなのがバレバレ。まるで舞台の書割りのようです。その上に、仲間たちの会話がみょーに舞台的で(元大人計画の温水洋一なんかとくに)、その場面はほんと、舞台そのものでした。このシーンでまず、気分が萎えました。
前半はとてもとても退屈。退屈なのは、それぞれのエピソードの存在意義がなんだかつかめないのと、前へ前へと物語を進めていくエピソードのからみあいがない。
例えば奥さんが家出するエピソードと、二人で郊外へ行って楽しげなエピソードと、それぞれがどういう意義があり、どうからみあっているのか。あるいは、電車の中で写真を撮っておばさんになじられたり、変な劇団員と知りあうエピソードは、スズナリの前で並んでるシーンで終わってしまう。その後どこへもつながっていかないんですね。うーん、と映画の後にチカラをこめて考えれば「こういうことかな?」くらいはわかるんですが、観ている最中にわからないと、気持ちは盛り上がりません。
そして何より、それぞれのエピソードがちいとも面白くないです。唯一、奥さんが勤める旅行会社でのやりとりは、コミカルかな?くらいの臭いはしますが、とくに笑えるでもない。ここは笑わせたいとこかな?と思ってみても、お客さんのうち誰一人笑わない。
同じマンションの小学生に女の子の服を着せるシーン以降でやっと、エピソードが絡み合いはじめ、クライマックスの柳川のシーンは、現在ともクロスしあって、少しだけ楽しめます。でも結局長々2時間観たわりにはとくにエモーションが盛り上がらないまま終わってしまいました。
しかし映像はきれいです。これはほんとうにきれい。さっきベランダの背景をけなしましたが、それ以外はとてもとても美しい。世田谷線の線路沿いなんて、ああして見せられると、そっか気が付けば風情のある場所なんだなと思いました。柳川の駅に着いたカットなんて、カメラの動きも含めて素晴らしく美しい。その美しさはまた美術の良さによってさらに磨かれている。なぜか柳川の宿の床の間にあったかぼちゃが妙に印象に残りました。あと、なんと言っても奥さんを象徴しているひまわりの花がいい。
それぞれのカット、シーンの映像としての演出はいい味出てたと思います。優れた映像作家だと思う。でも2時間の映画として考えた時は物足りないです。ひとつひとつのエピソードが最後の柳川のシーンに向かっていっていない気がします。「ヨーコ、柳川行こう」のセリフによってかろうじて接している。でもやはり観ているぼくは「なんで君たちは柳川に行きたいの?」としか思えなかった。
なにかこう「三作目はゲージツにするぞお!」と意気込みがありすぎたんじゃないでしょうか。ぼくは「119」は観てないんですが、「無能の人」は単純にコメディとして面白かった。あまり肩にチカラを入れずにつくればきっといいのに。
〜やる気のないNHK映画〜
たまたまあいた時間にちょうどハマったので、何の予備知識もないまま観てしまいましたが、あなたはまちがっても観ない方がいいです。
情報誌によれば「風水」を題材にした荒俣宏原作の映画。そして椎名桔平と清水美砂主演と聞くと、ほら、ちょっと面白そうでしょう。
新宿東映パラス2という小屋で観たんですが、ここがまずやる気がない。「バウンスkoGALS」を観たピカデリー2ほどじゃないですが、その一歩手前くらいのやる気のなさ。売店に「この映画のパンフレットはお売りしてません」とある。あー何だかやる気がないなあ。「そもそもパンフを作ってないってこと?」と聞くと、これもやる気のなさそうな店員が「はいそうです」だって。
中に入ると、やる気のなさそうなサラリーマンと、やる気のなさそうな学生風の若者、そしてこれはもう生きることそのものにやる気を失っていそうな浮浪者風のオジサンと、全部で10人くらいの客でした。
はじまると、椎名桔平にはやる気ありそうで、清水美砂が出てくると観てる側も少しやる気が出てくるんですが、やはり映画にやる気がない。「東京に雨が数週間降り続いている」というスケールの大きい設定なのですが、出てくる場面は椎名演じる風水師の事務所と、清水演じるお天気キャスターのテレビ局と、あとは街のほんの一角。設定の壮大さに映画のやる気がついていっていません。あ、あと沖縄は与那国島の場面もあって、そこには「ざわざわロケしたぞ」というやる気がかいま見えなくもない。
でもやはりシナリオにやる気がなくて、与那国島と東京の話はいったい関連があったのか何なのか。与那国島で海の神(?)に殺されそうになる少女が風水師椎名に助けを求めて来るんですが、そのことと東京の雨とは結局関係はなかったみたい。
東京が「気」を無視して発展してきたため、バランスが崩れて雨を振らしているそうで、しかし風水師には「気」が目に見えないというコンプレックスがある。一方、与那国から来た少女には「気」が見えて、彼女の助けを借りて風水師は東京を救う、という物語。こう書くとすごく面白そうなんですが、しかし退屈。
結局映画としてのポイントは「気」が龍の姿で現れて、そのCGの素晴らしさを見よ、ということらしいんですが、別に今どき素晴らしくも何ともない。
画面の印象がどーも普通のフィルムの映画と違う気がして、「制作:NHK」と出たし、ははーんハイビジョン(要するに絵のムチャクチャきれいなビデオ)でつくってフィルムに落として映画にしやがったなと。これはNHKが自社技術で映画をつくってみたらどうなるかという実験映画ですね、きっと。そんな実験段階のものを1800円も払ってみせられるこちらの身にもなってほしい。他の9人の客はやる気ないかもしれないけど、ぼくはこのところやる気ギンギンで映画観まくっているんだから。
エンドクレジットをボーッと見ながら今日はえらくソンこいちまったなーと思ってたら、最後に出た監督の名は「片岡敬司」。これって、大学の映研の先輩じゃないか?
〜お金がないってサビシイね〜
「バウンスkoGALS」の時流れた予告編で面白そうだったので観に行ったんだけど…。
設定やストーリーはとても面白そうなムードにあふれている。戦国時代、不思議な刀の謎を探せとの命を受けた僧と侍。対するは、不思議な能力を持つ男が率いる野伏せり一味。一方、天から降ってきた異星人たち。その目的は、野伏せり一味が隠し持つ謎の隕石。それは恐ろしい魔物が封じ込められた石だった。人の生き血を吸ってついによみがえった魔物に、僧と侍、そして少女と異星人が力を合わせて立ち向かう。ほら、面白そうでしょう。(前にも似たことを書いたような)
魔物がねえ、あれははっきり言ってひどいよ。実物大の模型と、CGでつくられたものとを、カットによって使い分けてるんですが、それがバレバレ。あ、これは模型だ。あ、CGになった。あ、また模型に戻った。ウソがウソになっていない。
「ジュラシック・パーク」なんて大した中身じゃない映画でも、うわーこりゃ本物の恐竜にしか見えないよー、と思うからこわいわけでね。ぼくたちはそういう特撮をお手軽に見ていて自然と目が肥えてるんだから、あんなんじゃ迫真さもへったくれもない。だったら人が入ってることは合点承知の上で見るゴジラの方がなんぼかマシだ。
お金がなくてウソつくから、カット割りもどーにも無理が出てきて、いかにも苦労しながらカットをつないでるのが見ていてありありとわかっちゃうんで、魔物が人を襲うのもなーんか白けちゃう。こう撮ってああ撮ってそうつないでるなーって。これ、中学生だってそう思うくらいチープ。
お金がないなりに場面を途中から野伏せりの砦に限定して、その中で活劇を展開するぞ、って作戦みたいだけど、せっかくそうやってお金を節約しても、カンジンの魔物にお金がかかってないからさー。
小道具とか、いろいろ面白いんだけどね。僧が筆を武器にして戦い、筆で紙に「封」とか書いて相手に投げると身動きを封じられちゃうとか、アイデアは豊富。そういう、作り手達の頭の中の映画はさぞかし面白いものだったんだろうけど、それをフィルムに定着したときに、お金の無さがひびいちゃってる。
観ながら黒澤明の「用心棒」を思い浮かべちゃったんだけど、あれもひとつの宿場町に場所を限定してお金かかってないんだけど、さらに魔物もSFXもへったくれも出てこないんだけど、あの面白さは何?つまりお金がないなら、無理して特撮しなくても、脚本を練りに練れば充分面白いわけじゃん。お金がないなら、頭を使えよ。特撮なんかするなよ。
もっとも雨宮慶太という監督は特撮な世界を撮りたい人みたいだから、止めてもムダなんだろうけど。どうしても特撮がやりたくて、でもシネマジャパネスクの枠だとお金がでないのなら、ハリウッドに売り込めばいいのに。あっちのB級SFX映画なんて、話はありがちなパターンでも、特撮に無理が無くてもっと楽しめるよ。日本映画は、しばらく特撮はあきらめた方がいいね。
なーんかしかし、一生懸命日本映画観て、結局欠点だらけのばっかじゃん。お客さんも入ってなかったし、日本映画が盛り上がってるって、幻なんじゃないの?
〜ドキュメントとフィクションの曖昧な境界〜
良かった。完成度が高いとは言えないけど、映画の新しいベクトルに向かおうとしていた。
一人を除いてシロウトの役者しか使っていない、ということだけは聞いていたんだけど、これほどまでにドキュメンタリーなフィクションだとは思わなかった。
実際この監督は、ドキュメンタリーを主に撮ってきた人。明らかに、劇映画が好きで好きでたまらなくて映画を撮った、ということではない。ドキュメンタリーの延長線上でフィクションは出来ないか、という動機の映画なのだと思う。そこが何より興味深い。
だからアップが少なく、引きの絵でワンカットがえらく長い。会話のシーンなどでも切り返しなんか絶対にない。空間があってその中に二人の人間がフルサイズでいて、カメラ廻しっぱなしで会話を撮る。会話を撮るというより、会話を含めたそこにある空気みたいなものを撮っている。
切り返さない、引きの絵が多い、というと北野武みたいだけど、結果が似てるだけで、ぜんぜん動機がちがう。
セリフが少ないのも、演出というより、現実の人間は(とくに日本人は)やたらと喋らないものだから。それが現実だから。
つまり監督が虚構を用意してハイその中に入ってくださいと役者に演じさせるんじゃなく、シナリオを理解してもらって役者にそういう現実をつくってもらう、それを撮る、というやり方なのだと思う。それがフィルムにしっかりにじみ出ている。ほとんどの役者に現地のシロウトさんを起用したのもそういう企みのはず。
虚構と現実、フィクションとドキュメントの境はどこにあるのか、どこにもないのではないか。といった事を一時期よく考えたのだけど、また考えてしまった。
奈良の山奥の村が舞台で、トンネルが開通しなかったことによって取り残され、崩壊してゆく家族を描いている。けれども必ずしも、古き懐かしき家族に帰ろうよ、がテーマではない。過疎の社会が崩れる社会背景みたいなものも感じさせているけど、でも社会派ではまったくない。
むしろそういう「現実」あるいは「現代」を神のようにやさしくもあり残酷でもある視線で描こうとしている。どれがいいとか悪いとかの価値判断じゃなく、「イマ」を懸命に見つめたらこういう物語でこういう撮り方になりました、ということか。
どっか物足りなさも感じるし、疲れていたせいもあって途中眠たくもあった。父親が死ぬ理由を理解しやすい伏線がもう少しあってもよかったんじゃないかとか。でもこれは新しいベクトルだと思うし、このベクトルの先に何があるのか、ぼくは見たい。とても見たい。
とってつけたように書くけど、少女役の尾野真千子という女のコ、これも地元の高校生らしいんだけど、すばらしい!最後、別離のシーンの握手なんて、すごい!スゴ過ぎ!
〜時代に切り込む大傑作、のなりそこない〜
すんごく面白いのに、途中までは。扱ってる素材やテーマがタイムリーと言うか、不安な今という時代にぴたりとシンクロしてるのに、うまく物語を処理できていない。
ごく普通の人間たちが突如殺人を犯す。という設定がもうあまりに現代的でいい。「誘拐」を観た時に、犯人が実は正義で悪は大企業、だなんて今どき痛くもかゆくもないじゃないか、と思ったんだけど、「CURE」はその点ちゃんと時代に切り込んでいると思う。殺人は実はある男が催眠によって誘発していたわけだけど、彼は「殺すこと」を命令していたというより、人々の心の中に潜む殺意を引き出していた。そのことが人々を「いやし」てもいた。
男が人々に、そしてぼくたちに突きつける「お前は誰だ」の問い掛けはキツイ。何しろ、例えば山一証券の社員たちはいま、自分が誰かわからなくなっているわけだ。そこまでいかなくても、アイデンティティが揺らいで不安な気分が日本中に立ちこめている。ぼくだって自分が誰だかわからない。「お前は誰だ」と問われて不安に駆られて、ただひとつ確かなのが「あいつを殺したい自分」しかない。これはひとつの真理だと思う。
というようなことを考えてしまう前半まではいいんだけど。
途中からやけに不親切になるのだ。さっきまで丁寧に丁寧に物語を語っていたのに、突如(具体的にはうじきつよしがビデオテープを見せるシーンあたりから)不親切になる。この語り口の豹変ぶりは不愉快でさえある。収拾がつかなくなったのか、上映時間の制限があったのか、あるいは「観客に解答を明かさない」という演出の意図なのか。いずれにせよ、これは失敗だと思う。
あえて言えば、これが中野武蔵野ホールのみの上映なら許されるかもしれない。(そこで観てもぼくは許したくはないが)しかしこの映画は銀座では東劇という大劇場で公開されているのだ。なおかつ役所広司なんていうビッグネームが主演なのだ。三越の帰りに「ちょっと映画でも」てなノリのおばさんだって観るんだ。そして題材はそういうおばさんたちだって興味ある筈の「普通の人々の殺人」なんだ。彼女たちだって途中まではドキドキしながら観てたはずだ。あの不親切な豹変は彼女たちをガッカリさせただろう。「なんか途中からよくわかんなくなっちゃったわ」と思っただろう。もったいないじゃないか。
殺人を描こうが何だろうが、人は物語がきちんと閉じられてカタルシスを得る。「セブン」だってあの苦いエンディングでもきちんと物語が終わって納得感は得たはずだ。
必ずしも「設定」をすべて明かす必要もないとは思う。男がなぜ人々の殺意を引き出してまわったのか、それはわからなくてもよい。でも最後の方では「何が起こったのか」さえ曖昧だった。そこで観客に不親切に物語を閉じないのは、傲りじゃないか?
この不親切さは、「女優霊」を観た時も感じた。両方とも、きちんと締めくくれば、ここ数年の日本映画の大傑作になれたのに。「CURE」なんか興行的にも大成功したと思うんだけど。ああ、もったいないなあ。
〜「女優霊」の続編的恐怖(今度は成功)〜
「女優霊」の中田秀夫監督の新作。「女優霊」はせっかく恐かったのに物語が不完全でぶいぶいモンクを書いたけど、これはちゃんと(?)終わってる。そのうえ、「女優霊」の恐怖のテーマをさらに発展させた感があって成功作になったと思う。試写で観たんだけど、公開が楽しみだ。
この映画、原作が鈴木光司といういま注目のモダンホラー作家で、「リング」と「らせん」の二部作になっている。映画は、ちゃんと中田監督による「リング」と飯田譲治監督による「らせん」の二本立て公開。デュアル・ムービーということになっている。二本観ることで物語の全貌がつかめるというふれこみ。だから、「リング」には多少「これで終わりか?」と思わせるところもあるんだけど、それはそれで続編への期待が高まっていい。そのぶん「リング」はトクしている。逆に「らせん」は責任重大。
もうひとつ、これを書くのはやや職業倫理上アレなんだけど、ぼくはじつはこの二部作、ポスター製作の仕事をやったのだ。(デュアル・ムービーってのもぼくのネーミング)やったんだけど、仕事の進行の中でかなりの不愉快があって、自分としては満足のいかない結末になった。もう映画のポスターの仕事はやらないぞ、と決意したほど。だから、仕事やった身内の甘さよりも、いまいましい思いの燃えカスがまだ心に残っているので逆にかなり厳しい視線で観た。にもかかわらず、そうとう恐がってそうとう面白がったから、これはそうとうそうとう楽しめる映画なんじゃないだろうか。
あるビデオを見ると、一週間で死んでしまう。それを見てしまった女が主人公。
でもねえ、「死んでしまう」ことが恐いんじゃないんだ。それは物語に観客をひきつけておくエサみたいなもんで。じゃあ何が恐いのかというと、顔が恐い、写真が恐い、ビデオが恐い。つまり映画そのものが恐い。刃物を振り回さなくても、血のりが飛び散らなくても、恐怖は描けることを、あらためて思い知らせてくれた。ホント、このまま観てたらぼくは心臓が止まって死んでしまうんじゃないかと思ったもん。「サイコ」を観て以来の恐怖だった。
しかし、一緒に観たある人は、もっとホッとする場面があってほしかったと言う。彼は原作を読んでいて、主要人物のキャラクターがぜんぜんちがうんだそうな。竜司という役があるんだけど、そいつがもっと快活なんだって。まあ、彼は恐怖映画が苦手だからそう言うんだけど。しきりと「恐かったよ。ああ恐かったよ。でもおれは恐いのイヤなんだよ」と不平を言っていた。いろんな観客がいるんだから、一理あるかもね。ぼくは恐怖映画好きだから、あれで構わないけど。
さて、果たして「らせん」はどうか。楽しみだ。
〜「リング」の謎の解説本〜
で、「らせん」。「リング」のところで書いたように、そのつづきとなる物語。でも主人公はちがう。だから時間はつづいているけど、まったく別の物語だとも言える。しかし「観ると死ぬビデオ」にまつわる話ではある。そういうところは面白い。
ただ、「リング」の恐さには正直言って及ばない。どーにも映画としての見所が薄いというか。いやでも見所はあってそれはひたすらハナシにある。「観ると死ぬビデオ」が持つ恐怖がもっと広がる。じゃあ「リング」より恐そうじゃないかと思うだろうけど、概念としては恐いんだけど、映画としては恐くない。そういう意味で言うと、「らせん」が持つ恐怖を映画に昇華しきれてないんじゃないかなあ。
「観ると死ぬビデオ」が持つ本当のパワー、その呪いの本当の意味などを、説明しておしまいといったかんじ。複雑で壮大なハナシをなんとか一時間半におさめることにチカラを出し尽くしちゃったのか。
登場人物たちがいろんなものを幻視したり、空間の切り取り方が少し面白い気もしたんだけど、どーも「リング」に負けてるなあ。別に勝負してるわけでもないだろうけど。でもそんなかんじ。時間がない人は「リング」だけ観ても、そんなに損じゃないんじゃないかな?
〜日本の男の美学〜
泣く。ラストシーンで泣く。涙がだらだらだらだら止まらなくなる。これはなぜか。うまく言えない。主人公の選んだ運命が悲しくて泣いたんじゃないみたいだ。砂浜からカメラがパンして映し出される海に感動したのか。でも海が美しくて感動したわけでもない。ぼくは何に感動したのか。
主人公と妻がいる砂浜に、元部下の刑事がたどり着いた時、最後に何が起こるか観客はもうわかっている。その時点で涙が湧きだしてくる。それはなぜか。最後に起こるべきことが美しいからか。
ぼくは北野武の映画をビデオでしか観ていなかった。だから正確には北野武が監督した「映画」とはじめて出会ったのが「HANABI」だったと言える。最初のタイトルが終わった後いきなり空がスクリーンに写る。次にムッとしたヤンキーの顔が写る。そしてビートたけし演じる西の顔が写る。その時ぼくははじめて北野武の映画と出会った。これが、この文体が他ならぬ北野映画だ。
たけし演じる男を主人公としている点では「その男、凶暴につき」や「ソナチネ」と同じように見える。でも映画が進むに連れて、ちがう点がたくさん見えてくる。同じように死に向かって走っていく様が物語になっているのに、行動原理がちがう。「その男」の刑事は同僚の復讐に燃えて、あるいは白痴の妹のために、殺し屋と戦うように見える。でもほんとうはちがう。戦いたい本能にしたがって戦い、死に向かう。でも「HANA-BI」の刑事は明らかに歩けなくなって自殺まで図った同僚を想っている。そして何より、不治の病に侵された妻のために旅をする。
「武士道は死ぬことと見つけたり」という言葉がある。「葉隠」の中の一節。これは「やたら死にたがるお侍の不条理な生き様」と誤解されてるけど、ほんとうは「死を意識しているから美しく生きれる」という哲学。「HANA-BI」はこれに近い気がする。なんかこういう哲学が、日本人の血にはあるんじゃないか。少なくともアメリカ人にはなさそう。
劇場はえらい混みようで、興業の失敗が言われてきた北野映画もようやく資金回収が出来る映画になったんじゃないか。でも観客はほとんど若者。この映画は中高年が夫婦で観ても感動できるだろうに。そこがちょっともったいない。でも松竹のルートでは客入らなかっただろうから、それよりはずっといいけど。
〜オタクパワー炸裂〜
何の気なしに観たアニメ映画。以下、CinemajapMLへの投稿から。
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とても久しぶりに投稿してます、境です。
ずーっと忙しくて映画を観れなかったんですが、今日久しぶりにちょいと時間ができたんで「Perfect
Blue」を観ました。ちょうどあいた時間にぴったしハマったんで。
映画がどうだったかの前に、環境の話をしますね。ちょっと独特なムードの中で観たもので。
まず驚いたのが、客が並んでたこと。平日の4時の回で日本映画、となればガラガラだろうと思うじゃないですか。それが開演15分前から並んでる。しかも小太りで眼鏡かけて汚いジーンズにださださのジャンパーという絵に描いたようなオタクな方々ばかり。それぞれ二、三人連れで何やらオタクっぽそうなマニアックそうな会話を交わしています。うわあ、しまったなと思いました。ぼくだけ人種が違う。帰ろうかなあ。
次に驚いたのが、小屋の情けなさ。東京在住の方は、この映画は新宿ピカデリー3では観ない方がいいです。もう、ひどいんだぜ!定員54名と小屋が狭いのはともかく、スクリーンが小さい小さい。テレビで言えば明らかに100インチよりだんぜん小さい。50インチくらいじゃないか。その上天井が低くて精神的に息苦しくなる。こんな小屋で1700円とるなんて。ひなびた温泉街のストリップ小屋の方がまだマシだ。しかも周りはオタクな方々。相変わらずマニアックな会話が渦を巻いています。うわあ、いやだ、やっぱり出よう。でも1700円もったいないかな。しかしこのままここにいると心が病んでしまいそうだ。どうしよう。ああ。とか思案しているうちに映画がはじまったわけです。
この映画はアイドルの物語で、本編がはじまるといきなりアイドル好きのオタクたちの会話のシーン。ぼくは何かさっきまでの現実がまたスクリーンに展開されてるような錯覚をおぼえました。なんかこう、最初はちょっとオエーッてかんじになっちゃった。で、映画そのものも現実と幻想が入り乱れる話なんですよ。
物語が進むと、オエーッも忘れて、映画に引き込まれましたが。けっこう面白かったよ。女優への脱皮を事務所から強制されて悩むアイドル。その周りで起こる殺人。演じているドラマの虚構、インターネット、そして妄想と現実とが交錯して大混乱、てな話です。
ただ、どっかシナリオに無理あるような気がする点と、やや粗雑な絵づくりが気になりました。でもまあ、新宿ピカデリー3でオタクな方々に囲まれて息苦しさをこらえながら観なければ、もう少し楽しめた気がします。
映画がまずまずで気を良くしてパンフ700円を買ったら、また情けなくなりました。だってたったの8ページ。うち半分はビジュアルのみ。チラシに毛の生えたみたいな、しかも波平程度の薄い毛が生えたみたいな、情けなーい内容。「内容が無いよう」と、どうしようもないダジャレを思わず口走ってしまい、よけいに情けなくなった月曜日の夕暮でした。
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マイナーな映画のわりに、この投稿をきっかけにCinemajapで少し盛り上がった。
実写の方が良かったんじゃないかという人がいて、一理あるなあと思った。ただこれを実写にすると、とんでもない予算がかかるだろうけど。
それとオタクについてもけっこう議論が交わされた。また、友人の女性CMプランナーとも個人的なメールのやり取りをこの映画についてした。彼女はオタクだったんだと「カミングアウト」した。オタクって何だ?その輪郭は曖昧だが、確実に存在はする。謎の人類、オタク。
〜「過去」は過去でさえあれば美しいの?〜
何か邦画を観ようと思ったら、おもしろそうなのがなーんにもない。で、仕方なく「SADA」を観た。期待しないで観たにも関わらず、その無い期待以下だった。
冒頭、いかにもセットの昔の映画館の入り口。登場人物の一人が「これからはじまるのはフィクションですよー」と宣言しながら映画館にはいって行く。そして物語がはじまる。
宣言された通り、ものすごくフィクショナルというか、セット組んだなーという美術に、モノクロからカラーへまたモノクロへと目まぐるしく変わる映像。リアリティを排除しようとする意志が感じられる。その意志はとてもエネルギッシュではあるんだけど。それがちっとも楽しくない。
阿部定の「お芝居」をスクリーンに描こうとしている。でもそれはひたすら懐古的に感じられる。「昔はよかった」という幻想にしがみつこうとしているように思える。パンフレットに「その頃は殺人でさえ美しかったはず」と大林監督が書いていて、そのコンセプト自体は共感するけど、映画ではそれが「美しい」というより「うわっつらの楽しさ」にしか描かれていないと思う。ぼくはただ、阿部定の物語を表層的になぞる人形劇を見せられているような感覚しか持ちえず、「美しい」とまでは思えなかった。
過去が過去でさえあれば、幻想でさえあれば美しい、ということではないと思う。むしろ、過去を通して現代をえぐろうという意志が必要なんじゃないか。
「いまの殺人は通り魔殺人で、殺す側も殺される側も顔が見えない。昔は顔が見える殺人だった」と監督は言っている。しかしその意図とは正反対に、「SADA」は現代の「顔の見えない殺人」を体現してしまっている気がする。「現代の殺人」に切り込んだ「CURE」の方が、よっぽど顔が見える。「現代」にホンキで悩んでいるか、ただバカにしているか、のちがいがそこにはあるんじゃないかなあ。
〜松竹の若手監督が、がんばった〜
松竹で育った若手、本木克英の第1回監督作。どんくさい松竹の撮影所でよくこんなういういしい作家が育ったと思う。いろいろアレだが、がんばってほしい。
原作は「中国てなもんや商社」というノンフィクション。これを小林聡美を主演に据えて、明るく楽しい映画に仕上げている。
腰かけのつもりで社員数十数名のB級商社に就職した女の子が、中国のいい加減なビジネスと丁々発止やり合いながら、立派なビジネスウーマンとして育っていく。物語のそんな骨格自体がまずいい。小さな会社でこそ生き生きと頑張れるのだということを、若い女性にメッセージしているように思える。でっかいビルでインターネットとかこなしながら英語ぺらぺらなキャリアウーマンより、よっぽどカッコいい。
そうした主人公の成長と、中国の経済成長とがリンクしている。物語の出だしは1987年。男女雇用機会均等法の制定直後で、中国経済の夜明け前。まだ渾沌とした中国をあたたかい目で描いている。主人公と交流する中国の青年が「ビジネスは夢だ」と語る。未来を見つめる視線は、見る人に勇気を与えてくれる。
もうひとり、会社の先輩、華僑の王(ワン)も重要なキャラクター。国籍のハンディを気に留める様子もなく、ひょうひょうと困難を乗り越える。女性というハンディをモノともしない主人公は、王にとって妹であり同志だ。彼女をバカにせず、対等なビジネスマンとして扱うその姿勢は、上司の理想像だろう。この役を、渡辺謙が力みなく演じていていて、グッド!
彼は主人公に言う。「ビジネスは計算です」そのひとことに、この映画のスタッフたちの意気込みを感じた。日本映画の低調なんのその。おれたちは「計算」でがんばるぞ!ってことじゃないかな。
とはいうものの、この映画はもともとシネマジャパネスクのラインナップだった。奥山和由解任のあおりを受けて、2週間こっきりの公開。宣伝もろくにしてもらってない。本木監督、松竹なんか辞めちまえ。夢と計算で、日本映画をぶっこわしてやってくれ!