98/5/19「マッド・シティ」
〜設定が甘いわりに説教くさい〜
で、9日にエイリアンに邪魔されてみれなかった「マッド・シティ」を観た。メディアによって人生を狂わされる男の話、みたいなことは知ってたんだけど。このテーマは日頃から問題意識持ってるから、とても興味深く観たのだが。
ぼくはてっきり「無実の男がメディアによって犯罪者に仕立てられてしまう」のかと思ってたんだけど、ちょっとちがった。実際は「悪気はなかったけど明らかに犯罪を犯した男が、最初はメディアの力で同情を集めるが、最後にはやはりメディアによって凶悪犯になってしまう」だった。いや、これも正確ではないんだけど。
なんか物足りなかったのは、もっとありえないほど極端な設定を期待してたからかなあ。
だってジョン・トラボルタ演じる男は脅すだけのつもりだったとは言え、ライフルを持っていたし、それが暴発したとは言え、人間を撃ってしまった。そこにたまたま居合わせたダスティン・ホフマン演じるレポーターが多少の演出を加える。メディアが犯人をねつ造するわけじゃない。
ぼくたちは松本サリン事件の時、現実にメディアが犯人を事実上でっち上げたのを体験している。またぼくたちもそれを無批判に信じ込んでしまってもいた。そういうメディアの恐さ、その視聴者に受け身で甘んじる恐さを知っているのだ。あの時の現実に比べたら、この映画が描く状況はどってことない。悪気がなくても人を撃ったあんたが悪いんであって、メディアは大して悪かないよ。
最後にトラボルタが死んでホフマンは「We Killed Him」と叫び続ける。なーんか、説教くさくてださいエンディングだと思った。
似たテーマの「ワグ・ザ・ドッグ」に期待。
〜薄っぺらなブラックコメディ〜
すんごく期待して観に行ったのに。
ダスティン・ホフマン、デ・ニーロ主演、バリー・レビンソン監督。大統領のセックススキャンダルをもみ消すべくハリウッドのプロデューサーを起用して大うその映像をでっちあげるブラックコメディ。ほら、おもしろそうだ。でもちっともおもしろくないの。
大統領の依頼を受けたデ・ニーロ演じるもみ消し屋がホフマン演じるプロデューサーに依頼したのは「戦争」のでっちあげ。アルバニアの民衆を脅かすテロリストを退治するために出撃、となればセックススキャンダルから大衆の目をそらすことができる。という設定なわけなんだけど、カメラは終始もみ消し屋とプロデューサーたちを追うのみ。カンジンのだまされた世間はちょこちょこと流されるテレビ映像から伺い知れるだけ。でっちあげた映像もワンシーンくらいしか登場せず、なんか二人の男の会話を延々聞かされる舞台劇みたい。映画的じゃないというか。しまいにゃあ「プロデューサーにはアカデミー賞がない」とぼやきだす。それは知らなかったけど、あんまり物語と関係ないじゃん。
似た設定で大昔、「カプリコン1」という映画があった。こちらは火星へはじめて人類がロケットを飛ばす、けどじつは地球でこさえた大うその映像をテレビで流してました、って話。こっちは世界中をだますための映像をていねいにつくる様をていねいに描いていて、実に映画的だった。なんかそれに全然負けてるぞ。
「ボルケーノ」で気に入ったアン・ヘッチも三人目の主役だけど、持ち味出てない。
とにかく、観るだけソンだよ、この映画。「マッド・シティ」と言い、似たテーマの期待した映画に続けてふられてカナシイ。
「カプリコン1」についてもう少しふれると、これは傑作。「映像とはそもそも虚構だ」という「ワグ・ザ・ドッグ」のテーマにとっくの昔にスルドク切り込み、しかも楽しい娯楽作に仕上げている。監督はピーター・ハイアムズ。主演はエリオット・グールド。この二人はタイトル忘れたけどいかしたカメラワークの刑事コンビものの傑作もある。ハイアムズはその後ショーン・コネリー主演の宇宙の西部劇みたいな「アウトランド」っていうカッコいいSFも撮っているが、「2010年宇宙の旅」で「2001年」の神秘をダイナシにしている。最近は「レリック」というありがちなストーリーのB級モンスター映画で復活していた。つまんなかったけど。好きな監督なだけに、がんんばってほしいなあ。
〜マニアだけが楽しむ映画〜
1980年の「ブルース・ブラザーズ」のカッコよさはリアルタイムじゃないとわからないだろう。当時、黒いスーツに黒い帽子、サングラスで身を固めたジョン・ベルーシとダン・エイクロイドの登場に、ぼくたちは驚き、のめり込んだ。ぼくはとくに、コメディとR&Bが大好きな少年だったので、どっぷりハマって何度も何度も観たもんだ。なんと言うか、コメディとR&Bがミックスされて醸し出されるムードというか雰囲気がカッコいいんだな。
その続編ってことで、ワクワクしてたかって言うとそうでもなく、イーグルスやドゥービーの再結成みたいな「今さら感」がけっこうあった。なにしろ、ジョン・ベルーシがこの世にいないんだから、ちょい白けもする。
てなわけで期待もせずに観に行ったら、意外に盛り上がった。まずちゃんと18年後の設定になってるのがえらい。前作のオープニングで、刑務所から出所するベルーシに持ち物を渡す係だったフランク・オズが、刑務所長に出世している。恐ろしかったシスターはマザーに出世して相変わらず恐ろしい。ソウルフード屋のおやじだったマット・ギター・マーフィーがベンツの販売代理店の社長に出世していたのは笑えた。奥さんのアレサ・フランクリンは当然社長夫人。バンドに加わりたい夫を歌で止めようとするのは前作と同じ。それに合わせてへんてこな踊りを見せるのも同じ。このへんでその同じさ加減に感激して涙が出てきた。さりげにレイ・チャールズの楽器屋が看板だけ出てきたり、ジェームズ・ブラウンが啓示を与える役で出てきたり、とにかく前作をうまく踏襲しているあたり、にくいんだわ。
そうした「同じ」に加えて「ちがい」がまたいい。ジョン・ベルーシに替わってエイクロイドの相方を務めるジョン・グッドマンがなかなかやる。はじめて唄いだすシーンではその貫録におそれいった。そして、あまたのゲストミュージシャン。BBキングが粋な役回りで登場するほか、唄う姿をはじめて見たウィルソン・ピケットとエディ・フロイド。サム&デイブのサム・ムーア。ブルース・ブラザーズの対抗バンドとして出てくるのがまたすさまじいメンバーでボー・ディドレー、エリック・クラプトン、スティービー・ウィンウッド、グローバー・ワシントンJr、ビリー・プレストン、ドクター・ジョン、ジェフ・スカンク・バクスター、などなどなどなど。信じられないような共演が繰り広げられる。R&Bが好きなら、鼻血出るかもってほどだ。
そして何と言ってもダン・エイクロイドが生き生きしていた。そりゃあね。ジョン・ベルーシが死ななきゃ、ブルース・ブラザーズは公演を重ねてたろうし、映画も続編がとっくにできていたろう。ブルース・ブラザーズじゃなくても、きっとコンビでいろんなコメディやりたかったろうしね。実際、ピンで出てくるエイクロイドはどっかさえなかったもん。そんな思いの丈を、めいっぱい込めたってかんじ。
でもさ、やっぱりあくまで続編としての楽しさは越えられないね。頑張ってたとはいえ、やっぱりベルーシが暴れてる横でシブく無口にサポートするのがエイクロイドはカッコよかったんだもん。ほんとにほんとに、エイクロイドはカッコよかった。ぼくはけっこうマジで、ああいう男になりたいと憧れたんだぜ。ベルーシが死んで、サングラスを取って普通のコメディにちょっと太った顔で登場したエイクロイドを見た時のショックといったらなかった。「フジテレビです」なんてCMもやらせてほしくないなあ。
普通の映画にはない思い入れがあるんで、くどくど書いてるけど、とにかく前作が好きだった人は映画館で見るべし。前作を知らない若い人でも、R&Bに興味があるなら、まず前作をビデオで観ておいて、観るべし。
そうじゃない人には、まあどうでもいい映画かもね。あ、監督はジョン・ランディス。くだらない映画を撮る以上の才能がある人ではないけど、くだらない映画が好きなら、「サボテン・ブラザーズ」をビデオ屋さんで借りてみよう。すばらしいくだらなさだよ。
〜期待しなければ悪くないよ〜
「スピード」の続編。ロードショー公開時につまらないというウワサが飛び交ってたんだけど、サンドラ・ブロックは好きなんでビデオ屋で気楽に借りてみたら面白かった。ウワサ通り前作の方がいいんだけど、これもダメではないよ。
スワット隊員の恋人とカリブ海の豪華客船クルーズにでかけたサンドラ・ブロック。しかしコンピュータを操る男に乗っ取られて船は暴走しはじめる。さあ、船を救えるかスワット隊員とサンドラ。という話ね。
この映画、「スピード」の続編になりきれてない。むしろ「不気味なテロリストに立ち向かうたまたま居合わせたスーパーマンな警官」な設定で、「ダイ・ハード」なかんじ。「スピード」が面白かったのは、「バスのスピードを緩めると爆発しちゃうよ」という一見地味だけどなかなか映画的でサスペンスな設定だったからで、だからタイトルも「スピード」だった。バスが速度を緩めずに道路を走るだけで、ドキドキしちゃうわけだもんね。ビルみたいな豪華客船が海を暴走しても、あんまりドキドキしない。むしろ、でっかい船の中でテロリストと戦う活劇が主題で、やや使い古された設定になっちゃってる。「スピード2」というタイトルの映画に中身がなってないんだよね。
もうひとつ続編になりきれてないと思うのは、サンドラ・ブロックがただのヒロインなところ。前作では、しょうがなくバスを時速80kmで運転する羽目になっちゃった彼女が、キアヌ・リーブス演じるスワット隊員とタッグマッチでがんばるのが面白かった。なんかこう、キアヌの映画のつもりでつくって、出来上がってみたらサンドラ主演になっちゃったみたいな。それが続編ではただのヒーローの恋人。ときどき助ける女房役。しまいにゃ人質になっちゃうしね。
という、前作の魅力がもろもろ失われてばかりなのに、それでも面白いと思ったのは、最後に海辺のリゾートタウンに客船がツッコんじゃうところ。なにしろビルみたいな船だから、それが街に突っ込むのはとんでもない光景なわけ。怪獣が街をぶっこわすより、絵として奇妙で、壮大なスラップスティックといったところ。船がツッコんでゆっくり止まりきるまでをていねいに描いていて、これを見るだけでも価値ある。
でも最後はやっぱり爆発炎上。ずがーん、ばごーん、なエンディング。ハリウッドはこれがなきゃ映画が終われないと思い込んでるのか。宴会の最後の三本締めみたいなもん。はーい、それじゃそろそろ映画終わりまーす。いよー、ドッカーン。お疲れさまでしたー。ってね。
相変わらずなことをやりながらも、前作を越えてないよねとか言われながらも、とにかく2時間そこそこ楽しめる映画をつくってけっこうな金を稼いじゃうハリウッド映画。そこには、見習うべき点と、乗り越えるべき点の、両方があると思うね。
〜神の視点で語る楽しいコメディ〜
ウッディ・アレン監督作。「世界中がアイラブユー」の姉妹編みたいな映画。「ミミック」のミラ・ソルヴィーナが出ている。
ウッディ演じるスポーツ記者が赤ん坊を養子にする。妻と気持ちが通じなくなったのを機に、ホントの親を探す。しかし見つけた母親はポルノ映画にも出たことのある娼婦だった。
物語としては安直で、「世界中がアイラブユー」ほど感激はしなかった。でも似てるのは神のような視点で恋愛に悩む人間を温かく見ていること。真剣だけどバカで人間はかわいいね、といったかんじ。
その「神のような視点」を象徴するかのように、この映画はニューヨークで展開する現実世界と、アクロポリスでギリシャ神話の舞台劇のように物語を語る人々(?)の世界とが交錯する。舞台劇の人々がニューヨークのウッディに助言しに来たり、逆にアクロポリスでウッディが一緒に悩んだりする。この「遊び」が映画を楽しく愉快に広げる。コメディってのはいちばん神様の視点なんだよね。
ミラ・ソルヴィーノは大学出の才媛らしいのだが、この映画ではおばかさんな娼婦をそのダイナマイトボディを強調する衣装でかわいらしく演じている。「ミミック」で学者役を演じたのはその反動かもね。
ウッディ・アレンはいい年なのに精力的に映画を撮り続けている。コメディのジャンルで昔は同じように活躍していたメル・ブルックスはどうしたんだろう。ウッディと比べるとやってることはお下劣だったけど、好きだったんだけどなあ。
〜なぜ彗星は二つに分かれるのか〜
彗星が地球に激突する、という派手なスペクタクル映画。イマイチだと聞いていたので期待しないで行ったらまあまあ楽しめた。「インディペンデンスデイ」と比べればぜんぜんまともな映画。あの映画はあまりにも馬鹿くさくって不愉快になるもんね。
テレビの予告編では彗星がぶつかって津波が押し寄せる場面ばっかり出てきたけど、そのカンジンのスペクタクルシーンが意外なほど少ない。これはけっこう拍子抜けだ。しかもねえ、CGがなーんかいかにもCGで、迫力に欠ける。コロラドの奥まで水浸しになった、らしいんだけど、盛大に描かれるのはニューヨークが波に飲み込まれるところだけ。いかにもCGな自由の女神が渦に巻き込まれる。「インディペンスデイ」では円盤が地球中を焼き尽くしていて、それくらい徹底しないとつまんないよ、今どき。「マーズアタック」のマヌケな火星人でさえ、アメリカ中でもっとがんばってたぞ。
これ、ネタバレになっちゃうけどまあ大した映画じゃないから書くと、このハナシのシナリオで上手い(?)のは、彗星が途中から小さいのと大きいのと二つに分裂するってとこ。ぼくはてっきり地下に逃げ込んだ数百万人を残して人類が滅亡する映画かと思ってたんだけど、地球にぶつかるのは小さい方だけなの。でっかい方はアメリカとロシアの叡知を尽した宇宙船の人々が犠牲になって寸前で爆発しちゃう。
つまりね、小さい方がぶつかってそれなりの大惨事にはなるんだけど、人類滅亡の最悪の事態は避けられる。小さい方でスペクタクルは描いて、でも大きい方はなくなってハッピーエンドにしている。考えたねえ。滅亡するかどうかのドラマは描きたいけど、ハッピーエンドにはしなきゃハリウッドとしてはまずいってんで、こうなったんだろうね。
でもねえ、それがこの映画の欠点でもあると思うなあ。スペクタクルシーンの弱さも含めてね。だって見に来る客としては、もうとにかくどうしようもない事態になるんじゃないかと予測してるわけでさあ。なーんだ、大したことないじゃん、って。彗星がぶつかって、人類は滅亡して、政府が用意したシェルターに逃げ込んだ数百万人だけ生き残って・・・っていう方がこの世紀末には見たいんじゃないか。そこまでの深刻な事態を見せらないと彗星が人食い鮫や恐竜と大差ない恐怖にしかならない。
ただこの映画、ちょっとだけ独特なのが、死ぬべき登場人物じゃない人が死んじゃう。「死ぬべき」ってのもナニだけど、まあ「スクリーム」のセリフにあったみたいに、映画の中で死ぬべき人とそうじゃない人といるでしょ。観客が自己同一化するメインの登場人物は死なないし、死ぬ人はだいたい物語の中で「罪」を背負っている。そのセオリーを無視して死ぬ人間がひとりいるんだな。それはちょっと特筆もの。とくにハリウッド映画では。
もうひとつ特筆ものなのは、やたらと自己犠牲な人が多いこと。アメリカ映画を観てるとほーんとこいつら「おれがおれが」なやつらだなあと思うんだけど、この映画ではお前ら日本人の血が入ってるんじゃないかってほど自分を犠牲にする。「ミミック」では神の摂理に逆らって遺伝子操作で産み出した昆虫が多くの人の命を奪ったのに、その責任者たる科学者夫妻はいけしゃーしゃーと死なない。ところが「ディープインパクト」では命を譲ること譲ること。しまいには宇宙船の乗組員は神風特攻隊よろしく彗星に核弾頭とともに突っ込んでいく。このあたり、アメリカではともかくも、日本人ウケするんじゃないかなあ。いや、日本人は組織に身を捧げるのをやめつつあるから、逆にウケないかな?
大したことないわりには、いろいろ長々と書いたなあ。酒の肴にはしやすい映画ね。
〜ブルース・ウィルスの七つの顔の男だぜ〜
どがーん、ばごーん、ずごーん、でサービスしたつもりのハリウッド映画の中で、もっと人物の対決に重心を置いたアクション映画。その志は買う。ブルース・ウィリス演じる「ジャッカル」の名を持つ殺し屋が、チェチェン・マフィアの依頼でFBI長官を狙う。それを阻止すべくFBIは、減刑を餌に服役中のIRAテロリスト(リチャード・ギア)をアドバイザーにする。てな設定。
「ジャッカル」が暗殺用に特別な武器をカナダで準備しアメリカに持ち込むまでの過程が丁寧に描かれる。そこには一流スナイパーにふさわしい仕掛けがあったり、その残虐な人間性をあらわすエピソードが描かれたりと、なかなか見せてくれる。現れるたびにいろんなカツラで変装する。様々な変装をブルース・ウィリスが嬉々として演じていてこっちも楽しい。
彼を徐々に追いつめていくリチャード・ギアの側もうまく描かれている。発端となったロシアでの事件から関わっているロシア人の女捜査官(ダイアン・ヴェロナ)のキャラクターがハードボイルドでいい。シドニー・ポワチエ演じるFBI捜査官もいい味出してる。
そうした人物達の魅力的なキャラクターに比べ、カンジンのリチャード・ギアの性格付けが物足りなかった。ブルース・ウィリスが悪役で、リチャード・ギアは正義の味方なわけだが、もともとテロリストで服役中だったわりにはあまりにFBIに協力しすぎるいいこちゃんなの。その理由はいちおう途中で明かされるんだけど、それにしてもなーと。
それと、最後がイマイチで、世界で指折りのスナイパーのはずのジャッカルが女の子を人質にとるってのは情けない。そしてその死に方が輪をかけて情けない。
サービス過剰のハリウッド流に一石を投じてはいると思う。でももう少しいろんなとこ練れてたらよかったのに。心意気は、買うんだけどなあ。
〜哲学者モーガン・フリーマン、走る〜
「セブン」などでシブくわき役として存在感を放ってきたモーガン・フリーマン。この人が出てくるとそれだけで物語が底知れぬ深味をもって見えてくる不思議な役者なんだけど、この映画ではついに主役に大昇進。
日米ではやりの猟奇的犯罪もの。ワシントンで犯罪心理学としても活躍する刑事。ノースカロライナののどかな学園都市で姪が行方不明になり、はるばる捜査にやってくる。姪だけでなく若い女性が何人も行方不明になっており、何人かは殺されているが、残りはどこかに捕らわれの身となっているらしく・・・。
演出(監督:ゲイリー・フレダー)がエネルギッシュにがんばっている。普通入れないようなSEやカメラの動きに、やったるぜ!な意気込みを感じて好感を持った。猟奇モノもすでにいろんな人が撮ってるんだから、これくらいやる気見せないとダメだよね。
「森」を人間の心に潜む闇の象徴としてストーリーを構築してあり、それをふまえた演出になっている。そのあたりも、よく考えられている。
そして何と言っても、モーガン・フリーマン。いつもはただいるだけなのに、そしてただいるだけで強烈な存在感を持っているのに、この映画では動く。走る。拳銃ぶっぱなす。もちろん「ダイハード」みたいなサービス満点のアクションじゃないんだけど、とにかくこのいつもひとりで地球の悩みを背負っているようなおっさんが走るだけで、すごいパワー。彼が動く魅力と、ストーリー、演出のがんばりが、うまくかみあったなかなかの秀作になっている。
最後、ありがちな「意外な犯人」なんだけど、わりとそういう犯人探しはどうでもいい。それより、「牛乳パック」が美しくまたグロテスクですばらしいね。
女医役のアシュレイ・ジャッドはどっかで見たと思ってたら、「ヒート」にヴァル・キルマーの妻役で出てたんだった。女優としての魅力、パワーアップ!
ちなみに、テレンス・スタンプ主演の往年の名作「コレクター」とは何の関係もなし。原題が「Kiss The Girls」でそのまんまカタカタの邦題にするとラブコメみたいだから、誰かが「あ!」と気づいてこうしたんだろう。その作戦は、あきらかに混同を狙ってるけど、不愉快ではないね。
・・・しかし、「日本映画をぶっこわせ」と言うわりに、邦画を観てないなあ。
〜宇宙の新しい恐怖〜
恐い、という話だけ聞いていて観た。そしたら恐かった。かなり。
7年前に行方不明になっていた宇宙船イベントホライズン号が海王星近辺で発見され、開発者の博士を乗せた救助船が向かう。イベントホライズンは実は、極秘で開発された時空を折り曲げていわゆるワープして瞬時に宇宙を渡る航法の船だった。ドッキングしてみたら乗組員達はどうやら死んでしまったらしいが原因は謎。未知の航法が、もたらした未知の結末は・・・。てなストーリー。
途中途中に挿入される幻影の映像がとにかく恐い。普通のエイリアンもののSF映画じゃない。乗組員はなぜ死んだの?の謎が物語を引っぱるわけで、結局モンスターだったらがっかりだなあと思いながら観てたらちゃんとちがった。えらいね。かなり深い話で、宗教的でさえあるんだけど、原作ありじゃないのかなあ。オリジナル脚本でこういう映画ができちゃうところがハリウッドはあなどれないね。
謎はだんだん解き明かされるわけだけど、わかったことと起こったことの関係がいまひとつつかめなかった。でもそれは不満じゃない。なにしろ、モンスター以外の宇宙の恐怖を描いてくれてるから、それだけで満足した。そこに流れるのは「よく知らないものには悪魔が潜んでいる」という人間が普遍的に持ってる恐怖なんだな。
でも最後の方の博士がああなっちゃうのはちょっと、なあ、って思った。それと最後の最後の場面はいらないよ。しつこい。しつこさはハリウッドの悪いとこだね。
〜共同体が消えゆくのはサミシイね〜
「トレインスポッティング」など最近元気なイギリス映画の一本。ミニシアターでロングランされてちょっと話題になった。
閉山の陰が忍び寄るイギリスのある炭鉱町。男たちの息抜きと気概を支えてきたのは街のブラスバンドだった。とは言え、閉山とともに解散の危機が迫る。そこへ若くて美人な女がやって来て・・・。
時代の波に押されて消えゆく共同体を惜しむ映画。この気持ちは日本人にはすっごく馴染みやすいんじゃないか。ぼくたちはついついアメリカ人を欧米人の代表として見ちゃうから、こういう感覚の洋画を観るとちょっと驚いちゃうけど、ヨーロッパ人と日本人は意外にこういう感覚は似てるんじゃないかなあ。
資本家が悪で労働者は善、というわかりやすい二極分解の図式の物語も久しぶりに観たなあ。街の人々同志もお互い顔見知りで、っていうのもどこかなつかしい。とても日本人には共感しやすい。
こうした浪花節な世界を、ブラスバンドが奏でる音楽がからっと明るく見せてくれる。不思議なんだけど、物語の中で描かれるウェットな部分を、吹奏楽がさーっと風のようにさわやかに浄化するんだ。音楽は神。それまで人物たちに感情移入してじゅくじゅくしていた気持ちを、音楽が流れると神の視点になって「それもこれも人間よ人生よ」と達観した気分になるの。
そんな風に音楽に救われながらも、この映画は平成10年の日本人の心持ちにぴったりのメッセージを問い掛けてくる。そんなに資本の論理が大事かい?グローバルスタンダードに合わせなきゃならないかい?そうすることで、心が通じ合う古きよき共同体を捨て去っちまっていいのかい?
猫も杓子もグローバルスタンダードのお題目を唱える世の中になってきて、まあ都市市民はいいでしょうけど。だからって一億二千万人がみーんななんとかプランナーみたいなカタカナ職業にならなきゃ生きていけないのか。ぼくは中学生がピアスしてタバコ吸うすさんだ東京でカタカナ職業やってくしかないけど、日本中の田舎では農業はとっくに崩壊し、大都市の税金を公共投資で再分配してかろうじて自転車操業してきた。そしていまやその自転車操業は回転を止めようとしている。もはや農村に血液は送り込まれず、ただ血を垂れ流して死んでいくしかない。そんな状態で世界標準に(と言うよりアメリカ標準に)合わせれば、農村から人はいなくなり、都市はますますすさんでスラムを背負い込み、心通いあう共同体は農村や町内会はおろか、会社にも家庭にも存在しなくなる。
「ブラス!」のエンドテーマで、農村も都市も含めた20世紀の古き良き懐かしき共同体を葬送するとして、じゃあ21世紀にはどこに共同体があるのか、いやぼくたちは共同体を持たないさびしい人生しかおくれないのか、などと考え込んでしまうのでした。
〜スニークプレビューの弊害(たぶん)〜
マイケル・ダグラス主演、「セブン」のデビッド・フィンチャー監督。公開時に面白そうな匂いをまきちらかしてたけど、見た人の感想は「うーん、いまいち」が多かった。ぼくの感想も似たようなもん。大風呂敷広げすぎて、うまく包んで終われなかったって感じ。
父親の自殺を目撃したことがトラウマになったままの中年実業家。遠くロンドンで暮らす弟からの誕生日プレゼントはCRSという謎めいた企業の「ゲーム」というサービスだった。日常生活からふいにとんでもない「ゲーム」に放り込まれた男の運命は・・・。
かなり面白くはある。テレビで流れた予告編などからにじみ出ていた面白そうな匂い通りの中身ではあった。起こっていることが、CRSが仕組んだゲームに過ぎないのか、それとも本当に起こっている災難なのか。CRSの本当の目的は何なのか。その混乱が面白い。ちょっと、フィリップ・K・ディックの小説に似ている。ディック原作(という事になっている)「トータル・リコール」でも、起こっていることが夢の中なのか、現実なのか、という部分があるけど、それと似てるんだな。
これは誰かが仕組んだゲームなのかい?それとも本当の災いなのかい?これは映画そのものが持っている深いテーマだと思う。いや、小説も含めたすべてのフィクションが、最初から持っている不可思議さだ。筒井康隆の小説では、このテーマがしょっちゅう取り扱われる。そういう面白さが、この映画にはある。
そうしたテーマの深さを、ラストが背負いきれていない。現実とゲームが、あそこまでムチャクチャになったのに、なんだよ、そういうオチかよ、って感じ。
これは推測なんだけど、でもたぶん当たってるんだけど、スニークプレビューの弊害じゃないだろうか。ハリウッド映画では、大作になるほどいくつかのラストを撮影しておき、スニークプレビュー(つまりこっそり人々を集めて感想をモニターする)でいちばんアンケートで良かったもので公開する。たぶんこの映画でもそれをやって、こういうエンディングになったんじゃないだろうか。でも、こんなハイブラウなテーマで、多くの人の意見を聞いてはイカンと思うな。ここは脚本家と監督で大激論した結果のベストの結末を、プロデューサーは勇気をもって採用すべきだった。ここまでムチャクチャなストーリーだと、みんなが納得いくエンディングなんてあり得ないし、そうであるほど陳腐になるんじゃないか。
ハリウッドのマーケティング主義は、資本主義である以上正しいし、日本の映画界は学ぶべき点が多々あるとは思うけど、だからと言って何でもかんでも調査やアンケートで決めてしまうとやばそう。作家性が損なわれる、なんていう美しい論拠じゃなく、大勢がいいということが必ずいいとは限らない、という民主主義のどうしても逃れられない欠陥から、そう思う。広告の仕事やってても、クリエイティブを調査にかけると往々にしてマヌケな結果が出てくるんだもん。例えば、鈴木蘭々のウメッシュのCFが一時期調査やると第一位だったんだぜ。ね、調査より、自分を信じなきゃね、ものつくる人間は。
〜じょうずに脚色できました〜
ジェイムズ・エルロイという作家の小説の映画化で、50年代のロスを舞台にした犯罪もの。アカデミー賞を「タイタニック」と争い、公開当初から映画ファンが色めき立っていた。すでに一カ月くらいたつと思うんだけど、このお盆の平日に劇場は大にぎわいだった。かなり高い前評判を聞いてたもんでものすごく期待してたんだけど、期待しすぎて物足りなかった。ふらりと観てたら大絶賛したかも知れないけど。
おそらくかなり複雑であろう原作をうまくシナリオ化している。込み入った話だけど、わけわからなくはならない。その点は素晴らしいとは思う。多少わからなくても、最後に登場人物がすべてを整理して語ってくれるシーンがあるから、ダイジョウブだよおかあさん。
50年代のロスの能天気さの裏にあった陰うつさを暴く物語。カリフォルニアはアメリカンドリーム最後の土地だから、これはアメリカについての映画だ。「タイタニック」がアメリカ万歳の映画であるのと比べると面白い。去年のオスカーはアメリカの裏表が争って表が勝ったってわけ。そりゃ表が勝つわな。
そうしたアメリカ史と並行して二人の男の父親のトラウマがまた物語の重要な要素になっている。方や正義の父、もう一方は悪の父。正義を父に持つ息子は最後に正義を裏切り、悪を父に持つ息子は悪に刃向かう。そしてこの正義と悪にもアメリカがにじみでている。
あれ?こう説明していくともんのすごく深くて面白い映画じゃないか。でもなんか物足りなかったのはなぜだ。
んー、なんだろなー。ひとつには、これけっこう中だるみしちゃうってとこかなあ。ある時点まで、映画の目標がさっぱりつかめない。主人公の二人がいったい何がしたくて生きてるのかが見えてこないんだもん。
それと、上に書いたトラウマを二人は乗り越えたらしいんだけど、何を乗り越えてどう落ち着いたのか、イマイチわかんない。えー?二人ともそういうことでよかったわけ?と終わる。
というわけで、映画そのものはうむむむ、と終わっちゃって、後でパンフ読んでるときの方がおもしろかったなあ。ぜんぜん読んだことない小説家なんだけど、「体制が腐敗しているのではなく、腐敗こそが体制なのだ」このひとことが、今日の最大の収穫でした。
あと、小説の映画化についてひとり悶々と考えたんだけど、結論は「小説をそのまんま映画にするのはまちがっている」でした。チャンチャン。
〜日米文化摩擦を楽しもう〜
「こんなのゴジラじゃない!」「それはともかくつまらない!」とさんざん悪評を聞いた上で観に行ったのは、「毛唐め、ぼくらのゴジラをムチャクチャにしやがって!」と怒りたかったから。でも期待したほど怒りはしなかった。変な期待だけど。
当然ながらゴジラじゃなかった。でもそれはすでにオモチャ屋でキャラクターグッズとしてのGODZILLAを観てたからどんな生き物にされちゃったかは知ってたけど。劇中で、最初に日本の漁船が襲われ、その生存者の日本人がうわごとで「ゴジラ・・」とつぶやく。これは「襲われた怪物はわしが昔映画で観たゴジラのようじゃった」ってことかな?と思ってたら、ある人の説明だとやっぱりそうなんだって。つまりこの映画の中の世界でも東宝はゴジラ映画を製作していて、その名前がこの怪物に付けられたという設定らしい。てことは、ゴジラとGODZILLAは名前が同じだけどまったく別のものだということ。だからちがっていい、と製作者は言い訳したいらしいけど、そんな言い訳してもつまらなくなったのはつまらなくなったんだからさ。
核実験によってイグアナが巨大化したのがGODZILLAなんだけど、そうなった時点でウソくさいしつまらない。ゴジラの「核実験によって眠っていた古代生物がよみがえり放射能の炎をはく怪獣になった」の方が、謎めいていてウソくささが少ないと思うんだけど。だいたい、しょせんイグアナだから炎もはかないし、そのくせ突然変異で雌雄同体の単性生殖になりました、だなんて都合よすぎじゃん。マンハッタン島が巣づくりにふさわしいからって、なんで南太平洋からわざわざ泳いでいくんだ。
とか細かいとこにモンクつける前に、この映画の製作者たちは、「怪獣」というものが理解できていない。ゴジラとGODZILLAは造形がちがうより何より、怪獣と巨大生物という大きなちがいがある。怪獣は、神なんだもん。神様だから、炎をはこうが、手が人間みたいに物を持つようにできていようが、許されたんだもん。神様だから、自衛隊が戦車やミサイルぶちかましても倒せなくって、謎の科学者(役割としては神官だね)が開発した謎の武器によってしか倒せないわけ。ウソくさいとはいえいろいろ説明ついちゃうGODZILLAはアメリカの軍隊の誇るミサイルで意外にカンタンに死んじゃう。巨大生物であって神様じゃないから。
子供の頃、ぼくにとってゴジラはすでに神話だった。小学一年生の時、父に連れられてはじめてゴジラ映画を見た。幼稚園時代から雑誌などで見ていたゴジラにようやく劇場で会えると思ってワクワクした。その「ゴジラ対ヘドラ」はそれなりに感激もしたけど、けっこう人間の味方だったり、しっぽを丸めて空飛んだりするのを観て、なーんかちがうなあ、と感じた。その後テレビで2作目にあたる「ゴジラの逆襲」を観て、こっちの方がいいぞ、と思った。なんかこう、描かれるドラマも小泉純なんか出ていて大人の話でいいなあとか。さらにそれが終わった後、父が「この前に第一作があって、それはもっと恐かったとぞ」と福岡弁で教えてくれてぞくぞくした。さらに翌年だかに「ゴジラ対ガイガン」を観たらゴジラとアンギラスが吹きだしで会話してたんで、なんかがっくしきた。一方、テレビ放映で少しずつ昔のゴジラ映画をチェックしていき、「怪獣総進撃」あたりまでがイカしてるなあとか、「モスラ」や「ラドン」などそれぞれの怪獣の単独の映画がよくできてるのに感心したり(いまだに「バラン」単独の映画を観てないのが心残り)とか、そうやってゴジラ神話の全体像を学んでいったんだな。そいで子供心にも「ぼくが生まれて以降のゴジラ映画はダメだ!」とか基準決めてたなあ。ミニラ登場以降はホント、おこちゃま向けになっちゃってさ。ウルトラマンの方がもうよかったもん。
まあでも、子供の頃のぼくにとって、ゴジラはそうやって重要な研究テーマだったし、神話だったの。いまは偽物になっちゃったけど、昔は本物だった、みたいな。
いくら言い訳付けられても、やっぱり日本の観客は大したゴジラファンじゃなくても、「おれたちのゴジラを!」てな気持ちが多かれ少なかれあると思う。だからこの映画、造形がああなって「怪獣」らしさをいっさい失っちゃった時点で、失敗なんだよね。続々ジュラシックパークただしできはイマイチ、でしかないんだから。
ところがこないだ3歳の息子をビデオ屋に連れていったら「ガメラ」のパッケージをみて「パパァ、これガッジーラ?」と聞くじゃないの。GODZILLAはぼく一人で観たから、テレビで流れる予告編でああいう巨大モンスターはまずガッジーラつまりGODZILLAとして刷り込まれたらしい。GODZILLAはハリウッドであと何作か製作されるらしいから、次は息子を連れていってみよう。彼にとってどんなゴジラ神話が編まれていくのか。と考えるとおもしろい。でも次は「怪獣映画」にしてほしいなあ。
息子が興味持ったようなんで、「ガメラ2」を借りて観た。関連してておもしろいから、そっちも読んでね。
〜せめてもう少しアイデアを盛り込めば〜
まあまあ。
リュック・ベッソン製作・脚本の映画。スゴ腕のタクシードライバーがさえない刑事を助けてマルセイユの街を走り回り強盗団を捕まえる話。
ハリウッド映画みたいなカーアクションをフランスでもやりたかった、ということらしい。
他愛のない映画で、他愛なさ過ぎて物足りない。やりたがったほどカーアクションに魅力や見所がない。
刑事とドライバーの二人、そのまわりの女性たちの関係やキャラクターは面白かった。脚本のそういう部分はよくできていると思うけど、他愛のないアクション映画やるなら、アクションに関わる要素にもっとアイデアがあっていいんじゃないのか。
「メルセデス」と名乗りその通りベンツで現れる強盗団(この設定はすごく面白いけどね)があんまりカンタンに強盗して逃げおおせちゃう。なぜ捕まらないかのトリックが一応出てくるんだけど、そんなことで捕まらないの?とツッコミたくなる。他愛のない映画とは言っても、そのあたりに「おおっ、なるほど!」てなアイデアがないと引き込まれない。最後に主人公たちはある作戦で強盗団を追い込むんだけど、その作戦もまず「信号をいじって何したかったの?」だし、「大金のせたまま挑発に乗るわけ?」でもある。やっぱ「おお、なーるほどすごい作戦だ!」と驚きたいじゃん。
カーチェイスの「オチ」は笑った。これも強引なんだけど、馬鹿馬鹿しいから許す!ってかんじ。
全体に、「馬鹿馬鹿しいことやってるだけだから、許してね」って映画だった。許さないとは言わないけど、あまりぼくにとって必要な映画ではなかった。フランス映画はハリウッドを真似てる場合なのか?
まーデートの前の軽い食前酒に、どうぞ。
〜手法のちがう災害映画〜
次の打合せまでえらく時間があいたので何か映画を見ようと思ったんだけど、なかなか見たいと思うものがない。で、モーガン・フリーマンが好きなんで、これにした。タイトル通り洪水の映画。でも原題は「Hard Rain」なんだけど。噴火だの竜巻だの沈没だの、災害映画が続いててあきあきしてるのに、こんな企画じゃ当たらないだろうよ。
洪水で徐々に徐々に水かさが増す街。ほとんどの住民は非難してるが、保安官と助手たち、現金輸送車の警備員とその金を狙う強盗団、教会のステンドグラスを修復してた若い女、偏屈な老夫婦だけが残された。現金をめぐって彼らのドラマが繰り広げられる。
どうせ三番煎じの災害映画だよね、と高をくくってみたらけっこう面白がれた。まずオープニング、パラマウントの山からカメラがパンダウンすると、水に飲み込まれた道路や街が映し出される。パラマウントのクレジット画面をいじる遊びがちょっとひきつける。そしてそこからいっきに俯瞰で洪水の様子を見せていく。最初に設定を見せてしまう手法がなかなかいい。
その後進んでいく映画は、少人数で舞台もひとつの街で、どこか舞台劇みたいなムード。でももちろん、刻一刻と増していく水もきちんと描いていて、映画のサスペンスを高める。
モーガン・フリーマンは強盗団のリーダー役。まずそこに驚いた。だっていい役を演じる役者、というイメージあるじゃん。クリスチャン・スレイターが現金を守る警備員。保安官などその他の登場人物は正義の側として警備員の味方。つまり強盗団vs警備員を中心とする他の人々、という構図で物語が進む。この構図が途中でめちゃくちゃになる。それがこの映画のポイント。洪水がクルマだの家だのいろんなものを押し流して街をカオスにするわけだけど、人間の善悪の構図も押し流してめちゃくちゃにしちゃうわけ。
ただ、そうなると、せっかく悪役で登場したモーガンおじさんが、なーんかいい側になっちゃう。そこがちょっと気にくわない。なーんだ、やっぱり悪役じゃないんだ、って。
それはともかく、この映画、普通の災害映画では、災害から多くの人々をどう守るか、に主軸が置かれるのに対し、もう災害から街を守るのはお手上げで、その混乱の中で何が壊れ何が守られるのか、に主軸を置いた脚本になっている。そういう視点の面白さは面白いと思いました。
でもビデオが出てから見ても遅くはないけどね。
〜夢を実現する話なのに切ない〜
ロードショーで見たいのがないので、目黒の二番館に行った。何年ぶりだろう、こういう小屋で見るのは。
この映画は知人が「今年のベスト」と言ってたので気になってた。そしたら100人くらいの小屋が9割がたうまってたので、気になってた人が大勢いたんだろうなあ。知人がほめるだけあって、他の映画にはない独特の味わいがあってよろしかった。
近未来、人類は生まれてくる子供の受精卵から悪い遺伝子をあらかじめ取り去り、病気になる確率が限りなくゼロで能力的にも優れたエリートを生み出すようになっていた。でも主人公はそうした遺伝子操作を経ずに生まれた「神の子」。心臓が弱く、30歳までしか生きれないことがわかっている。しかし彼は宇宙飛行士になりたい。その夢をかなえるために、足を悪くしたエリート青年と「入れ替わる」ことにしたのだが・・・。
日本の観客なら、この「遺伝子操作」を「偏差値」と読み替えて見るんじゃないだろうか。実際、この国では「偏差値」がこの映画の「遺伝子操作」と同じ意味で流通していた。もっともホントに偏差値に従って人生を送る人間は意外に少ないだろうけど、でもその神話は効力を発揮していた。そういう視点でこの映画を見ると、いま日本で「偏差値じゃ人生は決まらない」という世の中に変わりつつあることを、この物語を通じて確認できるような気になるだろう。
でもまた、この映画はそういう直球的な見方を超えた何かを持ってもいる。
まず美術が面白い。遺伝子で人生が決まっちゃう切ない未来のムードをうまく美術がかもしだしている。ばく大な予算をかけたSF映画とはちがい、大袈裟なセットやSFXはないのだが、明らかに未来な画面づくりに低予算で成功している。それは主人公がまんまと潜入するガタカという宇宙飛行企業の社内のセット。あるいはいまとあんまし変化はないけどどこか未来なムードのクルマ。それに主人公のマンションや着ている衣装などなどなど。あらゆる要素が切なく美しく「未来感」を漂わせている。
そしてまた、この物語は、遺伝子操作で人生決められることにあらがって、宇宙飛行の夢を実現する青年のストーリーなんだけど、それが必ずしも「バンザーイ!」って感じじゃない。ハッピーエンドのはずなのに、最後まで切なさが漂う。それはまた主人公にエリートとしての人生を明け渡しちゃう青年や、主人公と恋しちゃう女(彼女は「神の子」なのだ)、主人公の弟、などのキャラクターにも共通する。切ない。その切なさが何なのかについては、この映画はあまり語ってくれない。例えばエリートくんが足を悪くしたのは実は自分でクルマに飛び込んだからとわかるのだが、なぜそんなことをしたのかは教えてくれない。
「遺伝子に人生決められなくてよかったね」というより、「遺伝子に人生決められたくないけど、そもそも人生って切ないね」と言いたがってるように思える。その切なさの謎をもう少し知りたくて、もう一度見たいなと思わせる映画でした。
〜ジミだけどまちがいなく面白い〜
公開時に気になってたけど見損なったので、今回ビデオで見た。気になってたのは、「本で復讐する話」と聞いたから。なんだろうそれは。謎めいていて興味をそそる。
フランス映画なんだけど、舞台はイギリス。主演もテレンス・スタンプ。
で、ホントに本で復讐する話だった。出版社の重役の主人公。彼には青年の頃深く愛した女性がいた。ひょんなことからその女性がある男に陵辱されて自殺したことを知り、その男への復讐を企てる。まさしく「本で」。その計略がこってて面白い。
と書いていくとミステリー映画で、なんだかハデな気がするだろうけど、画面のタッチや物語の進行はひたすらジミ。ジミなんだけどつまらないわけじゃなく、物語の面白さも、演出のトーンも、何かひきつけるものがある。静かに静かに語る老人の話を聞いてるんだけど、退屈は決してしない、みたいな。
ハリウッド映画が死に物狂いでどんでん返しを見せてぜえぜえ言ってるのに比べると、大人なかんじ。落ち着いた恋愛をしている恋人と、ワインでも飲みながらゆっくり見る映画。
〜いきなりはじまるテレビゲーム〜
カナダの新人監督が撮った映画。六本木シネビヴァンで単館公開だったんだけど、何週間か前にぎりぎりの時間に行ったら入れなかった。なかなか客が集まってる。
面白い。ヘタな大作見てガッカリするより、よっぽどいいぞ。かなり期待して見に行って期待通りだった。
CUBE状の空間に閉じ込められて目覚めた人間たち。そのCUBEの各面には上下を含めてハッチがあり、開けるとまたCUBEがある。ルービックキューブみたいな構造。ただし、全体でいくつのCUBEでできているのかはわからない。しかも、CUBEによっては様々な罠が仕掛けてあって、殺されてしまう。さて、脱出できるのでしょうか、という設定。
絶望的な設定の中で、登場人物たちは罠のないCUBEに移動するためのルールを発見したり、計算から全体像を割り出したりする。つまりこれはゲーム。
プレイステーションで「I.Q.」というゲームがあるんだけど、真っ暗な空間にたくさんのCUBEでできた物体が浮いていて、人間のカタチをしたキャラクターがいる。その人間をコントロールしてある一定のルールにしたがってCUBEを消していく。失敗すると「うわああああ」と声をあげて真っ暗空間に落ちていく。
目が覚めたら「I.Q.」の中にいてゲームが始まったとしたらかなり恐いと思う。これは、そんな空想を映画にした、みたいなもん。その着想は、斬新で、面白い。
映画って、かなりゲームでしょ。「スピード」は「バスが時速50マイルになったら爆発してあんたの負け。その前に人質をバスから出さなきゃね、じゃなきゃ大金を犯人に渡す?」というゲーム。「リング」は「一週間以内にビデオの謎を解かないと死ぬからね」というゲーム。「らせん」になるとゲームのルールがあるんだかないんだか、複雑化してわかんなくて失敗、ってかんじだったし。映画がすべてゲームだ、とまでは言わないけど、単純なルールのゲームほど娯楽映画としては成功しやすいよね。
普通の映画は、ゲームが始まるまでに設定の説明「彼らはどのようにしてゲームを始めるに至ったか」が必要なんだけど、「CUBE」は説明抜き。説明がない方がいい、ということでもないし、むしろ設定の説明がいかにステキかも映画の醍醐味なんだけど、「説明なしにゲームはじめてみっか。予算ないし、面白いかもよ」ってかんじなのがカッコいい。
この映画はそういう娯楽度の高い実験をしてるんだけど、物語がちょっと陰惨ではある。また、キャラクターをひっくり返して、こういうやつだと思ってたら実はそうなった、みたいなことも繰り広げる。そうしたことも含めて、だんだん、映画の中の絶望的な空間が、現実のぼくたちの生きる空間と相似形に思えてくる。そうやって絶望させて絶望させて、でも最後にわずかな希望だけは見せる。見終わったあと重たーい気分になるんだけど、「いや、だけどさあがんばろうぜ」とは思わせる物語になっている。そうした点も、なかなかニクい映画だ。
この映画には、カナダ政府の協力が相当あったらしい。そりゃあ文化に理解のあるいい政府だねえ、とか悠長に思ってちゃいけない。来るべき映像の世紀に備えて、自国もハリウッドに対抗しうる映像文化づくりを政策的にやんなきゃ、という意志だと思う。日本もそういうこと考えなくていいのか。高度成長期には重厚長大産業を一生懸命育成したじゃないか。
〜ベテラン職人が撮った重厚なドラマ〜
シドニー・ルメット脚本監督による、まあ法廷モノなのかな。主演はアンディ・ガルシア。久々に法廷モノでも見ますか、とお気楽にレンタルしたら、2時間じっくり堪能できたから、映画って面白いね。
新人検事補のアンディ・ガルシア。警察官の父が麻薬界のドンに撃たれる。地方検事は次期選挙も意識して、アンディを担当にする。一方、逃げ隠れていた犯人は、リチャード・ドレイファス演じる狡猾そうな弁護士とともに自首する。果たして主人公は弁護士の手練手管をかわしてにっくき父のかたきを有罪にできるでしょうか・・・
以下は、それを言っちゃあおしまいよ、なネタバレなので、そのつもりで読め。
この映画、上のあらすじを読むと、なーるほど親子の愛をからめた法廷モノね、と思うでしょう。
ところがこの映画は、物語が二重構造になっている。
見事父の敵を晴らせるかなどうかな新人検事君、に2時間費やされるのかと思ってたら、裁判は前半であっさり終わる。話はトントントンと進んで、主人公は地方検事に推薦され当選しちゃう。なんだ若者のサクセスストーリーか?と思ったらそうでもなくて、問題はそこから。先の裁判では、裏に警官の腐敗が隠れていたことがちらりとわかるんだけど、あることから組織的な警官の汚職が発覚する。しかも主人公の父がいた分署も含まれている。つまり、裁判と主人公の出世は、そこに至る長い長い伏線だった。本番はそこから。
父は汚職に関与していたのか?父の長年の相棒は?彼らが関与してたらいまや地方検事の主人公はどうすべきか?正義を貫くなら起訴すべき?お父さんを?お父さんの親友を?そもそも正義って何?
そう、この映画は、法廷モノをゲームとして楽しむ映画ではなく、でさあ、結局正義って何だと思う?あんたどう思う?と疑問を力強くぶつけてくる重厚な物語だった。
SFXだい恐竜だいエイリアンだい、と娯楽映画といえばオコチャマ映画、みたいに成り下がりつつあるハリウッドに、ベテラン監督一石を投ず、ってかんじは「ヒート」にもあい通じる心意気があるんだろうね。そいでもって「ヒート」と同じように、監督自ら渾身の力で書いたと思われるシナリオがまずよく出来ている。人生の酸いも甘いもかみ分けたおっさんが、年輪を刻み込んだ顔でとっくり語りかけてくるような物語だ。もちろん、セリフや構成に、熟練と老獪さが駆使されていて、観客を飽きさせずに物語を進める。
日本の最近の映画も、良心だの芸術性だの新感覚だのだけで映画を撮らないで、ちゃんと娯楽としての必要条件を兼ね備えたうえで重たいテーマでも人生でも並々ならぬ説得力で語ってくるこういう映画を見習うべきだと思う。ハリウッドには、まだまだ学ぶべき部分はたっくさんあるぞ。
〜サイテーの邦題〜
ジョン・グリシャムが映画のために書き下ろした原作をロバート・アルトマンが監督。ケネス・ブラナー主演で、ダリル・ハンナ、ロバート・ダウニーJr.、ロバート・デュヴァルなど一流の役者が出演する。トム・ベレンジャーなんか別にトム・ベレンジャーがわざわざやるまでもないだろうという役で出ている。
話題性抜群の映画なんだけど、邦題が最悪。現代は「The Gingerbread Man」で、この意味は映画のセリフの中で出てくるわけだが、全然ちがう。全然ちがう邦題だからモンク言ってるんじゃなく、完全にネタバレな邦題なのだ。
この映画はジョン・グリシャムの他の原作ほど法廷ものではない。主人公が弁護士で、多少裁判の場面が出てくるものの、純粋なサスペンスと言った方が良い。おそらく興行的に法廷ものの装いをした方がジョン・グリシャムの人気との相乗効果があるとふんでの邦題なんだろう。その戦略は別にどうだっていい。そういう売り方をしたいならすればいい。だが、だからと言ってよりによってこの邦題はないだろう。忙しい中せっかく映画館にはせ参じた観客をなんだと思っているのか。法廷もののふりをすれば客が集まるだろう。それしか考えていない。その邦題によってこの映画の楽しみ方の重要な要素をダイナシにしてしまうことにどうして気づかないのだろうか。
この映画は、決して真犯人探しの物語ではない。だが途中から観客は「何か裏があるのでは?」と主人公より少し先に疑いはじめるようにつくってある。そこへこの邦題。「相続人」が裏にいるぞ、とはっきり観客に伝えてしまっている。ヒントどころではない、もろに「あいつが悪い」と名指しで教えてしまう邦題なのだ。主人公が「相続人」が裏にいるとはっきり感じた時、ホントは観客は「やっぱりそうだったか」となるべきところなのに、日本の観客は「だってこのタイトルだろそうだよね」となってしまう。
そういう邦題の無神経さに大いに腹を立てながらも、ぼくはそれなりにこの映画を楽しんだ。もっとも、サスペンスとしてどれだけ面白いかは疑問だ。だがおのおのの役者のはりきりぶりや、アルトマンなりのサスペンス映画へ挑んでる演出が面白い。
やたら多くの人におすすめするほどではないし、アルトマンの映画だったら他に見るべきものがたくさんあるとも思う。
というわけで、この映画のいちばんの楽しみ方は、邦題がいかに愚かかを知って日本の配給会社に悪態をつく、ことかな。
〜壮大なるメタフィクション〜
このところ、「マッド・シティ」「ワグ・ザ・ドッグ」と、メディアが現実をつくりあげちゃうことをテーマにした映画があった。ぼくはこのテーマが好きだし、きわめて現代的で興味深い、まさに映画が取り上げるべき題材だと思うんだけど、上の二つはいずれも大失敗作だった。どうせこのテーマやるなら、壮大にやっちゃいましょ、とことんつくっちゃいましょ、てな映画が「トゥルーマン・ショー」だ。
「マッド・シティ」では、その気はないのに人を撃っちゃった男が、テレビのチカラで凶悪犯人に仕立てられてしまった。「ワグ・ザ・ドッグ」では、大統領のゴシップから人々の気をそらすため、起こってもいない戦争をテレビがでっち上げちゃった。どちらも「トゥルーマン・ショー」のでっちあげに比べると、スケールが小さい小さい。何しろ、一人の男の人生を丸ごとテレビがでっちあげちゃうんだから。
「トゥルーマン・ショー」とはこの映画のタイトルであるだけでなく、映画の中のテレビ番組のタイトルでもある。トゥルーマンという男の人生のすべてを、生まれてから成長し、恋をし、働いている様を、24時間全世界に中継しているわけ。なんとも壮大なウソだ。
この映画、面白いのは、画面のほとんどはテレビ番組「トゥルーマン・ショー」の画面。番組を作っている側、その中継をブラウン管で観ている側も出てくるには出てくるが、大半のシーンは、中継を見ているであろう人々と同じ画面を見ていることになる。
それはクレジットの出方に如実にあらわれている。「映画トゥルーマンショー」のクレジットは、一番最後にしか出てこない。冒頭に出てくるタイトルは「テレビ番組トゥルーマン・ショー」のものだ。主演のジム・キャリーが登場すると、Trueman Burbank as himselfのクレジットが出てくる。
あるいは、主人公の行動を追うカットは、それぞれが隠しカメラで、洗面台の鏡が実はカメラだったり、クルマのコントロールパネルから見た映像だったり、誰かのボタンに仕込まれたカメラだったりする。とにかく観客は基本的に「テレビ番組トゥルーマン・ショー」の視聴者になるわけだ。
この映画、シナリオにやや難点を感じた。主人公がわりと唐突に、簡単に、自分の周りがでっちあげかもしれない、と思いはじめるのだ。30数年気づかなかったわりに、えらくたやすく気づくなあと。それとクライマックスがちと盛り上がりに欠けるかなあ。あ、なんだ、これで終わりなの?と物足りなさが残った。
でも、いまこのテーマに取り組むなら、ここまでやらなきゃね、という意味で満足。馬鹿馬鹿しい設定のようでいて、ここ数年の世界はなんか現実感が薄れている、ホントに周りがウソ臭い世の中になってきているから、真実味が逆にある。地下鉄サリン事件なんて、あまりに現実離れしていて、ありゃホントの出来事だったんだろうか、なんて思ったことない?
監督はピーター・ウィアーだけど、原案というか脚本は「ガタカ」のアンドリュー・ニコル。切ない未来を描いているところは、どっか似てるね。映画としてのムードは、「ガタカ」の方が好きだなあ、と思ったら、そっちは監督も自分でやってるのね。
〜戦争ってこうじゃん!〜
凄まじい戦闘シーンだという噂だったが、まさしく凄まじかった。
戦争についての映画なんだけど、戦争がいいとも悪いとも言ってない。戦争とはこういうものだよ、とただぽんと観客に提示している。ああ、やっぱり戦争はいけない、と思う人もいるだろうし、うん、戦争は凄いなあと感心しちゃう人もいるだろう。映画は戦争を観客がどう思うかは気にしてない。ひたすら「戦争ってこうじゃん!」をやっている。
考えたらスピルバーグはずーっとそうだったね。トラックに追われたら怖いね、にはじまり、人食い鮫って恐ろしいね、U.F.O.とコンタクトしたらうれしいね、宇宙人と友達になれたらいいね、冒険って楽しいね。あまりメッセージはない。至極シンプルなことを、徹底して映画にしている。
この映画の物語は、ミラー大尉率いる部隊がライアン二等兵をノルマンディーの渾沌とした戦場から探し出して祖国に送り届ける任務を遂行する話だ。途中、二人の部下を失ったうえに、最後には部隊はほぼ全滅する。この物語はどこかに視点をおけば、いろんな話になりえる。例えば、「たった一人を救う美談のために何人もの兵隊を死なせるなんて、戦争とはひどい。軍隊は非情だ」という話にもできる。そうするとこの任務を命令した参謀総長が最大の悪役で、ミラー大尉は最後にアメリカでのうのうと指揮をとる参謀総長を殴り倒しておしまい、てなことになるのだろう。
でもスピルバーグはそんなことしない。参謀総長は参謀総長で淡々と描く。悪役になんかしない。そこがスピルバーグだし、この映画の凄いところだ。何も言わない。メッセージしない。戦闘シーンの残虐さも、任務の不条理も、だって戦争はそうじゃん、とばかりに淡々と描く。最初と最後に星条旗が登場するが、別に国家批判も、国家賛美もしてない。だってアメリカってそういう国なんだもーん、って感じ。
人間ドラマもちゃんとある。大尉と部下の葛藤もあるし、大尉が悩んだりもする。戦闘経験がなくオロオロするばかりだった伍長が最後に「戦闘」に目覚めたりもする。おのおのの場面で「たった一人を救うために何人もの命を犠牲にするなんて」とか「やったなアパム伍長」とか、感動する。深く感動する。でも何かのメッセージが残るわけじゃない。ぼくたちは戦争についてひととおり体験するわけ。それで何を思うかは勝手にしてね、と。
そこには、スピルバーグの映画のおもしろさとつまらなさが同時にある。
ぼくは批判しているわけではないよ。この映画はいままでのスピルバーグの映画の中でもいちばん好きかもしれないほど。映画とはそもそもこういうおもしろさであり、こういうつまらなさなのかもしれない。ある意味、スピルバーグ以上の映画はない、のかも。映画のある種の到達点がスピルバーグなのかも。
80年代以降、ハリウッド映画が獲得したおもしろさとつまらなさが、そこにはある。おもしろいけどつまらないよ、おもしろいっておもしろいだけなの?みたいな。
ここでぼくが言う、おもしろくてつまらない、は、スピルバーグだけには許されるとこの映画を見てぼくは思った。戦争映画なんてありふれた題材をここまでおもしろくてつまらなくしたのは凄いと思う。「史上最大の作戦」よりだんぜんおもしろい。でも「ナヴァロンの要塞」のおもしろさはない。いやー、しかしおもしろいよ、ホント。最初と最後の戦闘シーンがリアルでなおかつアクション映画としてすごいのはもちろん、途中の人間ドラマも含めておもしろいんだもん。
なんかそういう執念というか。戦争映画やるならとことんやるぞ。恐竜の恐ろしさ描くならやれるかぎりやるぞ。そんなエネルギーと演出術は凄い。
ただ、彼が切り開いてきた「映画」を、ただ再生産しているとも言えるハリウッド映画は、ちょっとね。どうなんだろね。おもしろくてつまらない、はスピルバーグが死んだらおしまいなんじゃないかな。
だから日本映画には明るい未来があるとも言わないけど。
おもしろくてつまらない、の次は、何なんだろうね。
〜「グローイングアップ」スリラー版〜
「トレインスポッティング」で注目されたユアン・マクレガーがハリウッドで初主演した映画。デンマーク人のオーレ・ボールネダル監督が自国で撮った「モルグ」をリメイクしたもの。自分で自分のリメイクをするという希有な例。
大学生のマーティン。恋人や親友と気楽な学生生活を楽しんでいる。生活費稼ぎのためにはじめた病院の死体置場の夜警をはじめたのだが、それに連続娼婦殺人事件がからんできて・・・。てな話。
スリラー映画のはずなんだけど、中盤までちっとも怖くない。理由ははっきりしていて、この映画は娼婦が殺されるシーンではじまる。その際に、殺人鬼が娼婦にしたいの真似をさせてセックスしたがる趣味があることが明かされている。つまり冒頭で、屍姦趣味の殺人鬼が物語の焦点だと観客に教えているわけ。
そのくせ、主人公が死体置場を一人で見回るシーンで怖がらせたがる。でも、死体がよみがえるゾンビ映画ではないのはもうわかっているのだから、ぜんぜん怖くないわけ。おいおい、ここでびびらせようったってダメだよ、死体がよみがえるわけないんだからさー、とツッコミを入れたくなる。
映画というのは、「異次元」だから、この世界では死体がよみがえるかもしれませんよー、とあらかじめ思わせるシーンでもあれば、怖がったかもしれない。でも、最初に殺人鬼が登場してそのプロフィールが明かされてるんだから、ああこの世界のポイントは殺人鬼はいったい誰かなんだな、と思うじゃないさ。そうすると、死体置場に殺人鬼がいるかも、という恐怖は起こりえるけど、死体置場の死体がよみがえるかも、という恐怖はもう絶対に起きないわけ。
むしろ、途中で「誰が殺人鬼か」が観客には明される、その後の方がサスペンスとして面白かった。主人公はいつ犯人が誰かに気づくか、他の登場人物はいつ気づくか、早く気づかないと殺されちゃうよ、というハラハラが巻き起こる。
何かそういう、構造上の失敗をこの映画は犯している。元ネタの「モルグ」はデンマークではまれに見るヒット作だというから、リメイクする際にハリウッド側の要望に応えているうちに何かを忘れてしまったんだろうね。
この映画はスリラーとしてよりむしろ、成人になる通過儀礼の物語としての方が楽しめる。このテーマははっきりと制作者たちも意識していて、セリフのそこかしこに表れている。だから、まあ、「グローイングアップ」のスリラー版といったところかな。
〜裏「トゥルーマン・ショー」〜
何げに観たら面白かった。ほとんど話題になってないのが不思議なくらい。
ホテルの部屋で目覚めた男。彼は自分の名前も何もかもを忘れてしまっている。部屋には娼婦の死体。あわてて部屋を出た男は、街全体が奇妙なことに気づいていく。
まず何より、この映画の「イキオイ」に圧倒されてしまう。ものすごいテンポで場面場面が進んでいくのだ。それは急ぎすぎ、では決してなく、そのエネルギーにグイグイ引き込まれていく感じだ。
物語が進むに連れて、なぜ男は記憶を無くしたのか、街はどう奇妙なのかが明されていく。詳しくは映画を観ればわかるが、カンタンに言うと「裏トゥルーマン・ショー」。あっちでは、主人公の人生がでっちあげられていたが、こっちではその裏をいく感じ。その対比が面白い。
対比的なのは、でっち上げられた世界のトーンもそう。あっちでは、明るすぎるほど明るい世界で、太陽もしっかり輝いている。でもこっちの世界は暗い、重たい。太陽もない。同じ悲しい未来なんだけど、あっちは明るすぎてウソ臭くて悲しい、こっちは暗すぎてウソ臭くて悲しい。
あと、この映画は独特の美術とCGが素晴らしい。ドイツ表現主義を意識した、とパンフにあるんだけど、たしかに「メトロポリス」みたいな重たいビジュアルイメージを狙っている。CGも一般的なSFのように宇宙船やクリーチャーを描いているのとはまったくちがい、重たい街が不気味に変化していくさまを描くのに使われている。
まーそれもこれも、観てみないとわからないことなので、とにかく観てもらうしかない。そうね、けっこう、毛色の変わった映画だから、観て損はないと思うな、うん。
〜続「ゲット・ショーティ」〜
「ナイトウォッチ」の脚本はボールネダル監督とスティーヴン・ソダーバーグの共同クレジットだった。ソダーバーグと言えば、89年に「セックスと嘘とビデオテープ」でカンヌのグランプリをとった監督。ハリウッド映画としてはかなり実験色の強い映画で、ヨーロッパ映画みたいでさえあった。そんな人物が「ナイトウォッチ」のような作品に関わっていたのに驚いたんだけど、さらにパンフにはソダーバーグの最新監督作は「アウト・オブ・サイツ」だと書かれている。
「アウト・オブ・サイツ」っていまマリオンの劇場にかかってる映画じゃないか!ジョージ・クルーニーが銀行強盗役をやるらしいことしか知らなくて、大した興味が持てなかったんだけど、がぜん観たくなってきた。10日の昼間に時間が出来たので、さっそく劇場へ。
そしたら、この映画、エルモア・レナード原作の映画だったの。エルモア・レナードと言えば、こないだビデオで観て大いに気に入った「ゲット・ショーティ」の原作者!しかも、製作はダニー・デ・ビートのジャージーフィルム。製作総指揮には「ゲット・ショーティ」を監督したバリー・ソネンフェルドもクレジットされている。
つまり「アウト・オブ・サイツ」はいろんな意味で「ゲット・ショーティ」の続編なわけだ。物語はぜんぜん関係ないけどね。でもフィルムから漂うムードは似ている。ファンキーなR&Bが音楽に使われていたり。脚本家が同じスコット・フランクなのも大きいだろうね。
物語は「ゲット・ショーティ」ほどすっとんきょうじゃない。(なにしろあっちは映画マニアのマイアミのヤクザが借金取り立てにハリウッドに行き、なぜか映画のプロデューサーになっちゃう話だからね。)銀行強盗の男と、FBIの敏腕捜査官の女が恋をする物語。いや、まあ、すっとんきょうにはちがいないか。
面白いのは、実験的な作風のソダーバーグがきちんと筋書きを追いながらキャラクターの魅力を描く、というオーソドックスなスタイルの演出をそつなくこなしている点。さらに言えば、そつなくこなしながらも、随所随所にソダーバーグらしいこだわりがかいま見える。追想シーンなどで場面の順番を交錯させたり、ストップモーションを使ったり。興味深いのは、そうした手法が実験的に使われているのではなく、ちゃーんとエルモア・レナード原作映画をカッコよくもり立てていること。アドリブのようにストップモーションが決まると、「COOL!」と叫びたくなるカッコよさがある。あまり理屈では説明できないんだけど。
比べちゃうと「ゲット・ショーティ」の方が好きなんだけど、「アウト・オブ・サイツ」もなかなか満足できる映画だった。お客さんの入りは少なかったけどね。日本では興行的に失敗なんじゃないかなあ。そりゃ無理ないよ。エルモア・レナードなんてぼくも「ゲット・ショーティ」観なきゃよさがわかんなかったしね。でもアメリカじゃ人気作家だから、ヒットしたんじゃない?
しかしハリウッドってたくましいなと思う。だって、ソダーバーグにこの映画を監督させちゃうんだもん。ぼくだったら、えー、あいつの映画は面白いけどエルモア・レナードには向かないよー、と反対しそう。いや、彼ならエルモア・レナード映画に新しい魅力づけをしてくれるよ、と判断したプロデューサーたちはえらいね。脱帽。
〜ずんだれたフィリップ・マーロウ〜
「未来はいま」「ファーゴ」など個性的な映画づくりをコンスタントに重ねてきたジョエルとイーサンのコーエン兄弟の最新作。ぼくは彼らの映画を映画館ではじめて観た。
観てよかった。
自分ではデュードと名乗るジェフ・リボウスキ(ジェフ・ブリッジズ)。日本で言えば団塊の世代の元左翼ヒッピーらしい彼は、ろくに仕事にもつかず、結婚もしていないいい加減な暮らし。ベトナム帰還兵でなんだか右寄りなウォルター(ジョン・グッドマン)と、ただひたすらマヌケな男としか描かれないドニー(スティーヴ・ブシェミ)と一緒にボウリング大会で優勝することが唯一の楽しみ。いや、それもさほど打ち込んではいないんだけど。
ひょんなことから、デュードは同姓同名の大金持ちと知り合う。イヤなヤツなんだけど、なぜかその娘が誘拐され、その身代金の受け渡しを頼まれてしまい・・・てな話。
この物語は、90年代初頭を舞台にしたフィリップ・マーロウの探偵小説なのだ。マーロウとちがっててんでカッコ悪いし、ホントの探偵じゃないんだけどね。でも依頼人が大金持ちでしかもイヤなヤツだったり、その周りにいかがわしい人物がいてまた別の話を主人公に持ちかけたりするところは、限りなくマーロウなんだな。ついでに主人公が何度か殴られて意識を失うところもね。(実際、チャンドラーもハメットもスピレーンも、ハードボイルドの主人公は必ずといっていいほど気を失う)
マーロウは助手なしでがんばるけど、デュードにはウォルターという助手がいる。ただし、こいつが役に立たないばかりか、足を引っぱるし話をややこしくする。だいたい元左翼と元右翼が馬が合うはずないのにね。
気を失うと書いたけど、気を失ってる間に夢を見るシーンがある。ある意味で、この映画の最大の見所だと言ってもいい。まーなんつーか、とにかくバッカみたいなの。バッカみたいな、本筋からみたらどうでもいい夢のシーンに、いちばん予算がかかってるんじゃないかな。その馬鹿馬鹿しさは、50年代のMGMミュージカルに引けを取らない。なんだか、ああいう、いやそこでそんなハデなセット組む必要ないでしょ、と言いたくなるようなゴージャスさなの。
誘拐事件にはやっぱりハードボイルドにありがちな意外なからくりがあるんだけど、物語の結末は誘拐事件とはまったく無関係な人間の死で締めくくられる。なんでここであの男が死ぬ必要があるのかわからないし、ほとんどキャラクターが描かれなかった人間だから死んでも観客としてはどうとも思わない。という変な終わり方。いかにもコーエン兄弟だなあ。
相変わらずどういう感想を持たせたいのかわからない映画なんだけど、不思議と面白いんだよなあ。それにどういう感想を持てばいいのかわからないんだけど、ああアメリカだなあと思ってしまうんだ。「ファーゴ」なんかでもそうでしょ。
どう言えばいいかわかんないけど、面白いよ、とにかく。
〜三歳児も「もう帰る」と言った〜
オモチャの兵隊にまちがって軍事用チップが埋め込まれて出荷された、という予告編を見て面白そうだと思ったんだけど。
いや、この映画の前に、「スターウォーズ」新シリーズの予告編を見た話を書かなきゃな。
見たわけ。新シリーズがはじまるのは知ってたけど、とくに興味は持ってなかった。けど、予告編見たら面白そうでワクワクしてきて。そこで、ふと、三歳の愛息をまだ映画館に連れて行ってなかったことを考えたの。で、彼が生まれて初めて映画館で見るのは「スターウォーズ」がいい!と決めたわけ。
ところが、そう考えはじめると早く映画館に連れて行きたくなって、「スモールソルジャーズ」は面白そうだし子供が主人公みたいだし、いいと思ったの。字幕版もあるしさ。
で、数日前から「映画館はテレビよりずーっと大きい絵が見れるんだぞお!」と言い聞かせてたんだな。子供もその気になって「映画館はずーっと大きいんだよね!」と期待してくれてたんだけど。
もいちどあらすじを言うと、オモチャの兵隊はチームで発売されて、敵役の怪物チームの人形も同時発売。でも実際は怪物たちは平和な故郷(もちろんそういう設定を開発者たちがインプットしていたわけだけど)へ帰ることを夢見る、心優しいやつらだった。むしろ好戦的なのは人間のカタチをした兵隊たちで、怪物をやっつけるためなら、何をしてもいいとインプットされてるみたい。発売前にたまたま兵隊たちと怪物たちを箱から出しちゃった少年が、怪物たちを守るために兵隊チームと戦う、という物語。
この映画、物語の構造が「グレムリン」によく似てる。監督も同じジョー・ダンテ。大人たちから少し信頼されてない寂しい思いをしている少年が異世界の存在と心ふれあい、しかし彼らが原因となって大騒ぎになる。グレムリンは大人しくなったり凶悪になったりするけど、こっちの映画では大人しい者共と凶悪な者共があらかじめ分けられている。それらをひとつにまとめたのがグレムリンだとも言える。
で、つまんないのが、大騒ぎになるのが少年の住む家だけであること。ぼくは予告編を見た時、オモチャが全米で発売されるわけだからアメリカ全土が大騒ぎになるのだろうと思い込んでいたの。でも実際に勝手に動きだしちゃうオモチャはワンセットだけ。だからぼくがイメージしてたより騒動がしょぼいのね。
大人から誤解されたり災いをおまえのせいだと決めつけられたりする10代前半の少年が、異世界とふれあい、やがて騒動の後に大人と和解する。こうした構造自体は面白いし、いろいろ語れたりもするけどね。「E.T.」もそうなら、「スタンド・バイ・ミー」もそう。ウルトラマンにもよく出てくるパターンだよね。少年時代はそういう時代だし、そういう時代のためにこうした物語は存在する。大人なんてとかモヤモヤ思いはじめる時期を乗り越えるには必要な物語なんだと思う。
でも「スモール・ソルジャーズ」は地味だわ。軍事チップが埋め込まれてアメリカ中に出荷されたわりに、起こることがちっちゃい。こんなんじゃ見に来た10代のモヤモヤはスカッとしなかったんじゃないか。
そういうこととは別に、三歳の我が子にはつまらなかったらしく、途中で「おウチに帰らないの?」と言い出した。うーん。せっかく意気込んで連れてったのに、がっかりさせんなよな、ドリームワークス。
〜アメリカ人はみんな右翼だって知ってる?〜
「ダイハード」パターンの映画もついにここまで来た!大統領専用機エアフォースワンがテロリストに乗っ取られた。ファーストレディとスタッフが人質にとられたが、大統領はひとり人質にならずにすみ、ひとりでテロリストに立ち向かう。
大したことない映画なので、純粋に中身について語るより、政治的な部分を語る方が面白い。
まずこの映画、絶好調のアメリカの景気が背景にあるね。アメリカというシステムに微塵の疑いも感じていない映画だもん。大統領がダイハードしちゃうのよ。我らのヒーローはもう一介のNYの刑事なんかじゃない。みんなで選んだ大統領だ!このぬけぬけとした企画を多大な予算つぎ込んでカタチにしちゃうのがいかにもハリウッドだね。
最近のこの手の映画は大体そうだけど、やっぱり悪役は民族テロリスト。今回はチェチェン共和国の連中。ロシア政府と協力して身柄を拘束したチェチェンの将軍を解放せよと要求する。
いいのかよ、そんな設定にして。現実の方でもクリントンがイラクに攻撃を開始していて、なんつーかアメリカの傲慢を二重に見ちゃったね。世界の警察アメリカ。まあ、アメリカ人はみんな右翼だから、ブラボー!な設定なんだろうけど。
驚いたのは、途中で大統領の身を守るために自分の命を投げ出すやつがいること。そういう職務だから、と言われればそれまでだけど、なんのことはない、天皇陛下万歳!と叫びながら死んだ特攻隊とおんなじやんけ。
途中、大統領のいないワシントンの人間たちも描かれる。大統領が職務を遂行できない場合は解任してもいい、というくだりがある。メリル・ストリープ演じる副大統領(と最初書いてたんだけどちがうね、グレン・クローズだね。さかいたにさん、サンキュ)が悩むんだけど、解任はしたくないらしい。最後に大統領は生還し、彼女は解任の書類を破り捨てる。つまり、大統領を裏切らずに書類にサインしなかった彼女は正義として描かれている。それでいいの?ルールに公正な国がアメリカなんじゃないの?とっととサインした方が正しかったんじゃないの?
と、いろいろ批判しつつ、実はけっこうナショナリストなの、ぼく。ナショナリスト的に、二点悲しいこと。
ひとつは、こんな設定は日本じゃ考えられないこと。50歳以下で総理大臣になることはいまの日本のシステムでは事実上あり得ない。小渕首相はどうがんばってもダイハードできない。なんだか比べると情けない。
もうひとつは、この映画は日本でもヒットしたし、ビデオも驚くほどレンタルされている。別にみんなただの娯楽作として観たんだろうけど、素直に面白がったんだろうか。アメリカの傲慢さにムカつかないのか。そんな七面倒を考えるのはぼくだけか。