97/10/22「フィフス・エレメント」

「軽い」「中身がない」「辻褄が合わない」ともろもろの悪評をあらかじめ聞いていたから、期待せずに観に行ったせいで、逆にかなり楽しめた。これを書いているのはすでに11月19日なので、いろいろ忘れかけているけど、思い出しつつ書こう。

何より美術が素晴らしい。純粋ハリウッドスタッフではこんな美術にはならなかっただろう。未来を描く映画ってかなり「ブレードランナー」以降は美術がかなり偏っていたように思う。陰鬱でじめじめしたトーンで、「未来世紀ブラジル」だと少し違うけどやはりこの系統。ハリウッド映画の美術やSFXって意外なほど同じ人間がやっているからそうなっちゃうんだろうね。

しかし「フィフス」はちがう。ポップで、少し暗いけどかなり明るい。陰鬱ではない。空飛ぶクルマが近未来調のゴテゴテした物じゃなく、むしろ戦前の曲面デザインのクルマをそのまんま空飛ばせた感じだとか。冷蔵庫とか電話とか、そういった小道具が無闇に未来的なものになっていないのが面白い。宇宙人やその宇宙船のデザインとか、いろんな美術がステキだと思った。

あと、キャラクターがいい。ヒロインのルーリーが喋る不思議な言語や、敵役のゾーグのユーモラスなとことか、オペラ歌手のキテレツなムードとか、楽しさ満点。

テーマは「愛」で、主人公がヒロインに投げかけるたった一言の「アイラブユー」がすべての世界を救う、という集約がある。唯心論的に考えると、確かにそうじゃない?たった一言の「アイラブユー」で自分にとっての世界のすべてが救われるものじゃないですか。これは「世界中がアイラブユー」と比較すると面白くって、あっちの方ではそのあたりがかなり引いた視線で語られる。引いた視線だけど、冷めてるわけでもなくて、「アイラブユー」がうまく行かなくて、まるで世界が終わったみたいに落ち込んだりする。結局は、愛に対して同じ態度なのだと言える。

しかし「辻褄が合わない」のはほんとうで、ゾーグに電話してきた悪は何だったの?とか、オペラ歌手はなぜお腹の中に石を隠してたの?とか、最初にあの学者はなぜ殺されなければならなかったの?とか、いろいろおかしい。シナリオが未完のままつくっちゃった感じは否めない。「ツインピークス」や「エヴァンゲリオン」は、辻褄を合わせることがすべてではないし、ほんとうは辻褄なんかあわなくても物語は楽しめることをあらためてわからせてくれたけど、100億かけて製作したエンタテインメントなんだから、100億かけたなりの責任としてもう少しシナリオの完成度を高めてほしかった。そうすればクライマックスの「アイラブユー」でみんな素直にエクスタシーを味わえたと思う。その点は、反省しろよな。

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97/10/24「世界中がアイラブユー」

すばらしい!

ウッディ・アレンって昔はキライだった。あの貧相なルックスで自分をさげすんで笑わせるその姿がイヤだった。それはあくまで喜劇として、コメディアンとしてキライだったのか。しかし確か、「カイロの紫のバラ」もキライだった記憶があるぞ。もう10年前くらいだから忘れたけど、映画の中の世界と現実が交錯する話で、その交錯がぜんぜん交錯してなくてつまらん、と思ったんだっけ。

大人になったからなのか、ウッディ・アレンが円熟したからか(もう60代なんだね)わかんないけど、この映画は素直に楽しめた。

ミュージカルで、ファーストシーンからいきなりミュージカルだった。それが明らかに歌や踊りのうまい役者が見せる歌や踊りじゃないのだ。最初それが臭かったんだけど、慣れてくると逆にいい感じに思えてきた。ホンキのミュージカルやったって50年代のMGMにかなうはずないんだから、むしろそれらへのオマージュとしてはキュートかもしれない。ヘタなのに堂々と唄うジュリア・ロバーツなんか、カワイイとさえ思った。ちっとも好きな役者じゃないのに。

話は他愛もなく、様々な登場人物達がそれぞれに恋をして、失敗したりうまくいったり。ポイントはそうした恋を常に引いた視線で描いていること。つまり人間は恋をするじゃないか、その恋はあとで一時の気の迷いだったり大失敗だったりすぐに他の人を好きになったりするじゃないか、でもとにかく恋ってステキじゃないか、そういう物語なんだな。しかし映画とは不思議なもので、そんな当たり前でどうでもいいことを言われてもうんうんと深くうなづいてしまい涙まで流してしまうのはなぜだろう。

涙を流したのは最後のダンスシーン。もと夫婦の設定のアレンとゴールディ・ホーンがパーティ会場を抜け出し、セーヌ川のほとりで昔のことを懐かしむ。それは焼けぼっくいに火がついてるんじゃなくて、ほんとうに純粋に懐かしんでる。そしてミュージカルだからゴールディが唄いだす。これがうまい。素晴らしい歌声。いつものコメディエンヌぶりからは想像できないほど。まあ、二枚目や美人なだけの俳優とちがってコメディアンは芸達者だからねえ。

唄に続いて、ウッディとゴールディが踊りだす。そのシーンが素晴らしい。ウッディがさりげなく踊ってゴールディの腰をすーっと押し出すと、そのまま彼女のカラダは宙を少し浮いたまま流れていく。もちろん、簡単な仕掛けがほどこしてあるんだろうし大した仕掛けじゃないんだけど、その自然さが大きな感動を呼んでぼくは涙がだらだらだらーっと流れた。そのまま二人は踊り続け、ゴールディのカラダは自由自在に宙を舞い続ける。そのあざやかさは一度堰の切れたぼくの涙腺を刺激し続けた。

ぼくはミュージカルが、さらにはダンス映画が好きで、フレッド・アステアにもジーン・ケリーにもずいぶん涙したけど、まさかウッディ・アレンのダンスに涙するとは思わなかった。

しかしこの頃、映画をまた意識的にたくさん観るようになったら、一本一本にやたら感動して泣いちゃう。やっぱぼくは、映画が好きらしいや。

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97/11/7「ボルケーノ」

面白かった。面白かったけど、面白い映画にいまひとつ面白がれない自分をあらためて確認した。

溶岩こわいよー。あれは恐竜やエイリアンよりこわい。

生き物じゃないんだもん。エイリアンなんて何考えてるかわからなくてこわいけど、溶岩は明らかに何も考えていない。それはとてもこわいんだな。

構成がよくできていて、テレビリポーターをうまく使って状況を説明させたり、主人公以外の人物、アジア系の女医や、主人公の部下の青年などのキャラクター配置もうまい。よくできている。

一方でトミー・リー・ジョーンズが主役じゃないとあぶなかったろうなあ、という印象もぬぐえない。そうじゃなかったら、けっこうただのB級だったかもしれないという気もしている。地下鉄の管理職や、ビル爆破から同僚を救えないがために逃げない警官(あの二人はホモだね、きっと)など、ちょっと立派すぎたし。

いろいろよくできていて、ぼくはまちがいなくドキドキと楽しんだにも関わらず、映画館を出るとき、「それがどーした」と言ってる自分にも気づいた。なにかああいう、まっとうな面白さに飽きているんだね、きっと。

「ボルケーノ」よりも「世界中がアイラブユー」。あっちの面白さの方が新鮮だったということか。

「今まで通りの面白さ100」より「今まで通りじゃない面白さ80」の方がいまのぼくには面白いみたい。こりゃあハリウッド的映画はピーンチ!なんじゃないかねー。その意味で「タイタニック」にどれくらい面白がれるかが、楽しみ。

という話を先にこの映画を観た友人の女性にしたら、「アメリカが父性に憧れていると感じた」と言っていた。なるほど。確かにとても「父」の映画なんだよね。

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97/11/22「アンダーグラウンド」(ビデオ)

〜ナショナリズムとは何だろう〜

いい!素晴らしい映画。ハリウッド映画にはない面白さがある。

ユーゴスラビアの映画。ユーゴっていう国はもはや世界地図から消滅しているわけだけど、まさにその「消滅した」ことをテーマにしている。

いろんな視点で語れるんだけど、一口に言えば、「祖国なんて幻想じゃないかウソじゃないか、でもいいじゃないか」そんな映画。

第二次大戦中にユーゴのレジスタンスとしてがんばったクロとマルコという名の二人の男とその仲間たちの物語。と書くと何か重たそうだけど、語り口は軽くて陽気。コメディというか、ファンタジーの色合い。

1941〜44年を描く第一部、そこではレジスタンスが陽気に描かれる。その段階ではいまひとつ映画の意図が読み取れない。でも描き方の陽気さにほだされて物語にひきこまれる。東欧(というくくり方ももはや死語か?)の映画なのに明るくて楽しいなー、といった印象。クロとマルコはナチスと戦ってるくせに能天気に女の奪い合いでもめたりする。そんな楽しいエピソードの数々が続く。ここでは「アンダーグラウンド」のタイトル(原題も同じなわけ)はすなはちレジスタンスのことだよね、でしかない。しかし第一部はすべての伏線に過ぎなかったのだとあとでわかる。

1961年を描く第二部。第二次大戦の英雄としてユーゴの大物になったマルコ。一方クロは大勢の仲間たちとレンジスタンスをまだやっているつもりで、地下に閉じこもっている。まだ地上はナチスドイツが支配していると信じている。信じさせているのはマルコの策略。つまり「アンダーグラウンド」は現実とは別の虚構世界の意味になっている。

ここでいろんな価値がひっくりかえる。地上に出たマルコはナチスドイツと信じてユーゴ当局のヘリコプターに銃を向ける。

現在を描く第三部。やっと地上に出たマルコの弟イヴァンはまた祖国が戦争状態になっていると知る。そもそも祖国ユーゴは無くなっているのだ。なんという悲しい話か。

考えてみれば横井さんや小野田さんは幸せだった。戦争してるつもりでジャングルに立てこもっていたら戦争は終わっていて、日本は豊かで平和な国になっていたんだから。イヴァンはずーっと地上ではユーゴとナチスドイツの戦争が続いていると信じていた。そしたら祖国は無くなり、別の戦争をやっていた。

武器商人として図々しく生きてきたマルコも、内戦の戦士としてたくましく生きるクロも、みんな死ぬ。しかし最後は悲しいエンディングではなく、死んだはずの登場人物が一堂に会して宴を開いて陽気に終わる。そこには愛と達観がある。ユーゴという祖国と、それを信じて生きて死んでいった者たちへの深い愛がある。同時に、愛国心とか人生なんてまあそんなものよ、という達観がある。

これは「女優霊」と同じ日にビデオで観たんだけど、あちらは虚構の中の霊が実体化した話で、なんとなくテーマ的に重なっているようで面白い。霊にしろ、愛国心にしろ、ぼくたちはそういった虚構あるいは幻想と取っ組み合って生きている。愛だとか、生きがいだとかを考えていくとその実体は限りなく怪しくはかない。しかしそれらは無でも無意味でもない。ユーゴという国はまちがいなく存在したように、愛だって生きがいだってまちがいなく存在している。それはすばらしいことじゃないか。

自国(?)の歴史ときちんと向き合おうとする製作者たちの姿勢が感じられる。製作費も並々ならぬ予算がかかっていると思うんだけど、けっこう気合い入れて「ユーゴスラビア」を成仏させるぞ、というイキゴミでつくったんじゃないかなあ。日本人が「戦後」という時代へのレクイエムをつくるとしたらどんな映画になるのだろう、と思った。そしてぼくたちは、できあがった映画と正面から向き合えるのだろうか。

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97/12/26「フェイク」

〜ハリウッドが描く義理人情〜

途中までややダラダラして退屈だけど、ガマンして観てると後半面白くなる。

ジョニー・デップのFBI捜査官がちんぴらのふりして、三下ヤクザのアル・パチーノに近づき、兄弟分になっておとり捜査をする物語。でも捜査官の捜査っぷりを描く映画ではなく、二人の男の友情物語になっている。しかもわりとジメジメしていて、日本の義理人情みたいな友情。でもそこがイヤではなく、泣いちゃうのよ。

前半はやや退屈。捜査官がおじんのヤクザと知り合って杯を交わすまでが丁寧に描かれる。丁寧すぎて退屈なのかなあ。

後半から、だんだん捜査官がヤクザ社会に溶け込んで認められたり、時々家に帰ると妻とケンカしたりして、葛藤が深まっていく。アル・パチーノがいい味出してて、弟分だった捜査官が自分より認められたりしてもねたんだりしない。息子の代わりにいとおしんでいるかんじ。捜査官もしまいには捜査はどうでもよくなってて、兄貴分との関係が捜査より家庭よりだいじになってくる。

でも最後には捜査官の身分がばれてしまう。兄貴分はヤクザ社会に彼を連れてきた責任を問われてどうやら殺されたらしい。この場面が泣けるところで、スーツを着て自宅でくつろぐ兄貴に電話が入る。「呼び出し」を受けたわけ。いくつかの伏線があって「呼び出し」は殺される事とイコールだとわかっている。スーツを着てたのも、自分の死を正装して待ち構えていたって事。奥さんにいろいろ言いながら、「あいつにはお前だから許すと伝えてくれ」と言う。ここが泣ける。涙ポロリとこぼしちゃった。

でも驚いたんだけど、これってアメリカ人にわかるのかなあ。やつらはそういう時、「裏切られた!」と怒ることしかできないんじゃないのか。とか言ってこれはバカにしてるわけだけど。タランティーノ以外のアメリカ人には理解できない感情なんじゃないのかなあ。

あと「ボルケーノ」に地質学者役で出ていたアン・ヘッシュが捜査官の妻役で出ていた。この人、知的ででもエッチぽくて好きだなあ。

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97/12/27「ロングキス・グッドナイト」(ビデオ)

〜アクションがしつこくなきゃ最高なのに〜

クライマックスにアクションシーンがこってりつまりすぎてて、そこが逆につまらないと思った。設定とかストーリーはかなりイケてるんだけどなあ。

8年前以前の記憶がまったくないジーナ・デイビス。教師をしながら8年前当時妊娠していた娘とその後知り合って結婚した夫と幸福に暮らしている。しかし実は彼女はCIAの有能な殺し屋だった。8年前の任務で殺しそこねたやつらの魔の手が迫る。彼女はサミュエル・L・ジャクソンの探偵とともに、過去を取り戻す旅に出る。

という設定は、今までにないものがあって面白い。過去を探すというのがいいね。しかも今は普通の女性なのにだんだんかなりキレてたワイルドな女だとわかってくる。変身願望を満たすようでもあり、また人間の二面性にも迫っている感がある。

でも途中で殺し屋としての自分に目覚めてからは、ブルース・ウィルスの代わりをジーナ・デイビスがやってるだけみたいになっちゃう。死なないし。どんな困難も乗り越えちゃうし。いちばんの敵がなかなか死ななかったり、最後はやっぱり大爆発シーンだったり、そういう風じゃないとハリウッドは済まさないのか。

そういった「結局こうかよ」なガッカリを救ってくれたのがサミュエル・L・ジャクソンのキャラクター。「次にすることを唄わなきゃできないんだ」と言い訳しながら、Muddy WatersのMannish Boy(ストーンズもカバーしてるR&Bの名曲!)のフシで「ジャジャンジャジャ!まずトイレを済ませて〜」とか唄う。「パルプフィクション」でも必ず聖書の一節を暗唱しながら銃を撃つ殺し屋をやってて、そういう渇いたユーモアがいかすなあと思った。ジーナ・デイビスもごつごつした顔がアクションな女にハマっててよかったし。

最初の方でテレビに「ロンググッドバイ」がちろりと映ってた。タイトルもこれ意識してつけたんだろうね。エリオット・グールドって大好きだったんだけど、いまどうしてるのかなあ。

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98/1/12「メン・イン・ブラック」

〜B級なのにA級扱いなのはなぜ?〜

噂通り、わりとどーでもいい映画だった。でもキライではないよ。

エイリアンや、それを追う武器のSFXを楽しむ映画。でもそれ以上でも以下でもない。トミー・リー・ジョーンズが出てなきゃ、そーとーB級だと思う。でも当たってるんだって。いいのかよ、そういうことで。

SFXはかなり金かかってるらしいけど、そのわりには作り物くさい。わざとかなあ。わざとかもなあ。エイリアンのデザインとか、わざとチープにしてあるのかもしれない。その辺、古きよきSF映画へのオマージュである「マーズ・アタック」と似てるのかな。でもあっちの方が、徹底してていいよね。

監督は「アダムズ・ファミリー」や「ゲット・ショーティ」のバリー・ソネンフェルド。

「アダムズ・ファミリー」もコミックの映画化で似てるけど、あっちのほうが好きだったなあ。幽霊一家、という設定が面白かったし、毒もあった。宇宙人は飽きてるし、毒っ気もないもんね。

実はもっと好きなのが「ゲット・ショーティ」で、エイリアンも幽霊も出てこないけど、毒っ気はある。洒落っ気もあるし。渇いたユーモアで、ゲラゲラ笑わないけど、終始ニヤニヤ笑いながら観るかんじ。そういう、映画が醸し出すにおいが好きだった。

「M.I.B」にはそういう「アダムズ・ファミリー」や「ゲット・ショーティ」にあった臭みが抜けてる。SFXだけでなく、そういう臭みも入れていったら、そうとうちがった色合いの映画になったんじゃないかなあ。

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98/1/11「マーズ・アタック!」(ビデオ)

〜アンチアメリカ至上主義〜

「鉄男II」をビデオで観たら妻が怒っちゃったんで、彼女も面白がってくれそうなものというつもりで借りた。家庭の平和は人類の平和より大事だからね。

ティム・バートン監督の「マーズ・アタック!」。実はこれ、去年ロードショー公開時に映画館で観てるから、ぼく自身は2回目。学生時代はヒマだったから気に入った映画何度も観たりしたけど、大人になってからは2回も観るなんて久しぶりだなあ。

思いきりお金かけた特撮と豪華キャストで馬鹿馬鹿しくまたチープなSF映画であることが魅力。50年代のSF映画へのオマージュになっている。そもそも火星人が地球征服にやって来る設定自体、「宇宙戦争」だしね。ぼくは小学生の頃、この映画観てたし原作も読んで学校の感想文の宿題にしたから、強い印象がある。あの映画、当時としては画期的だったんじゃないかなあ。宇宙人の造形とか、円盤の飛び方とか、けっこう斬新だったと思う。

悪趣味も魅力のひとつで、そもそも火星人のルックスが悪趣味。彼らの光線銃を浴びると地球人はあっという間に白骨化しちゃうんだけど、次々に骸骨になっちゃう戦闘シーンも悪趣味。極め付けは、テレビ司会者の女と政府ご用達の学者による唯一のラブシーンが悪趣味。

悪乗りというのもあって、火星人が地球に総攻撃をかけるシーンは悪乗りもいいとこだ。世界中で歴史的な建造物を壊してまわるカットが次々に重なる。果てはなぜか映画史上最大の怪獣が街を破壊するシーンまでモンタージュされる。ムチャクチャだよ。

製作者達がどれくらい意識してたのかは知らないけど、「インディペンデンスデイ」へのあっかんべーみたいな側面もこの映画は面白い。あっちは大統領以下、アメリカ愛国者たちががんばっちゃう話なんだけど、こっちは大統領も軍人もやたらと無力。さらに、あっちではMIT卒の秀才がコンピュータウイルスを火星人の宇宙船にぶちこんで世界を救うけど、こっちではもっと馬鹿馬鹿しい方法を老婆とひ弱な青年が偶然発見する。(火星人のOSに効くコンピュータウイルスを地球人がつくれるなんて、あまりにも無理がある。「マーズ・アタック!」の撃退法の方がずっと説得力あると思うなあ)

最後に崩壊したワシントンでメキシコ楽団の伴奏で大統領の娘がその青年と老婆に勲章を与える。「インディペンスデイ」がアメリカこそ地球の警察!ってかんじで終わるのと比べると、対照的だ。やっぱこいつら、「インディペンスデイ」をおちょくってる気がするなあ。

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98/2/5「ミミック」

〜消化しきれないモチーフ〜

友人が面白いというので期待しすぎたのが裏目に出た。予告編やポスターも期待充分だったけど。それほどではなかったなあ。

遺伝子をいじって作りだした昆虫が、人間の意に反して人々を襲いだす。

と聞くとありがちなんだけど、映像のタッチや物語のモチーフには、ただのSFホラーに終わらせないぞという意気込みが感じられる。でも結局はただのSFホラーに終わってしまった。

「遺伝子工学から生まれた昆虫」を恐怖の題材にするなら別に「研究所から事故で逃げ出しちゃった」でもいいところを、わざわざ「子供たちを苦しめる細菌を運ぶゴキブリを一掃するためにつくった昆虫を地下に放った」というややこしい出だしにしている。これは終末感を漂わせたいらしい。途中にも、教会のシーンが出てきてイエス像が壊れているとか、ひたすら地下で物語が進行して暗くて奥深いホラーに仕上げたがっている。

でもそうした重たげなモチーフはただ物語のそこここに投げ出されているだけで、ちっとも絡み合わない。そればかりか、ひたすら暗い画面なもんで、恐そうなシーン、例えば人間が巨大な昆虫に襲われる場面なんかが、何が起こっているのかちっとも見えなくてちっとも恐くない。

さらにはラスト、神に背いておぞましい魔物を生み出した女性昆虫学者は何のおとがめも受けずに生き残ったばかりか、欲しかった子供さえ与えられる。せめて彼女の夫が人身御供になったのかと思えば、魔物たちを自分を犠牲にして焼き尽くしたはずなのに水の中にいて助かっている。お前ら、そういうことでいいのか。生きていて恥ずかしくないのか。あれだけ意味ありげに出てきた教会のシーンは何だったんだ。

だいたい「ミミック」とは「擬態」の意味で、この昆虫は人間を擬態するという解説が出てくるのに、実際はあまり擬態してくれない。擬態できるのは人間の「蔭」くらい。せっかく人間の「顔」まで持っているのに。そういうところも、映画の中で生きていない。もっと面白くできただろうが。

もっとも楽しめるのはカイル・クーパーのタイトルシーンだった。

しかしなんかもう、この手の話は飽きたなー。

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98/4/14「タイタニック」

〜2億ドルのNHK大河ドラマ〜

猛烈に忙しくて、久しぶりに映画館へ行った。アカデミー賞も席巻したしやっぱおさえとくか、ってことで有楽町で「タイタニック」。

午後2時20分の回にマリオンの日本劇場に駆けつけたら、すでにお立ち見。指定席も売り切れ。これはオドロキだ。着いたのが10分前とは言え、12月封切りの映画、1000人収容の小屋、そして平日だよ。これがアカデミー賞効果か?それともこの日が偶然タイタニックが沈没した日だったからかな?

どうしようかと思ったら、すぐ近くのニュートーキョーの上の映画館でもやってたんで、そこで観た。

あんまり期待しないで観ればちょうど面白いかと思ってたんだけど、あんまり面白くなかった。すごいね、よくつくったね、お金あるんだね、ってかんじだけ。

よくつくったね、って意味では2000円払う価値はあると思うけど。でも大作ではあっても傑作ではないね。

別の意味で面白いと思ったのが、アメリカ人にとってのタイタニック沈没事件の意義。神話なんだね。80年前の神話。これを象徴するのが、物語が100歳の老婆によって語られること。

こないだ仕事で東北まわって、遠野でおばあちゃんが昔話を観光客に聞かせるのを見て来たんだけど、それと同じなわけ。昔々、あるところにタイタニック号という名の船がありまして。そこで階級を乗り越えた恋がありまして。青年は死にましたが、少女はその後、自由に人生を謳歌しました、と。つまりヨーロッパの階級社会の時代が終わり、アメリカの自由の時代がはじまった、その節目がタイタニック沈没事件だったわけ。というか、この事件をそういう視点で見てるらしいんだな、アメリカは。航路がイギリスからアメリカだったってのも、それを象徴してるよね。

日本人は戦後、秀吉が百姓から太閤にまで出世したとか、明治維新の志士たちが世の中を変えたとか、戦争はまちがっていて戦後やっと民主主義になったとかの「神話」を繰り返しいろいろな物語を通じて教えられてきて、その典型がNHK大河ドラマだったんだけど、この映画もそういう役割をアメリカ社会にとって持っているんだと思う。

自信を喪失しかけた80年代後半の後、90年代の不況を乗り越え、いまや世界唯一の大国として世紀末を謳歌するアメリカで、いまやスピルバーグに並ぼうとするヒットメイカーのキャメロン監督が、「おれたちはヨーロッパの古い階級社会を脱出して自由の国アメリカの20世紀をつくってきたよな、な」とアメリカ人の肩たたきながら呼びかけてるわけ。NHKの大河ドラマもセットや役者にこってり金かけて立派なもんつくってきたけど、2億ドルにはかなわんね。そりゃあとるよ、アカデミー賞。アメリカ人うれしくなって仕方ない映画だもん。秀吉の物語なら、校長先生も土建屋のオヤジもみんな好き、それと似た感覚で健全なアメリカ人の支持を得たんだね。

「ターミネイター」「エイリアン2」「アビス」までのキャメロンはよかったけどなー。母性への崇敬とか、ネイティブな宗教性とかあって。「ターミネイター2」以降は、180度違うって気がする。権力的というか、近代崇拝というか。えらくなるとダメになっちゃうタイプみたいね。

関係ないけど、予告編が流れた「ワグ・ザ・ドッグ」がえらくおもしろそうだったぞ。

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98/5/2「ヒート」(ビデオ)

〜「男」に酔いしれる映画〜

カッコいい!めちゃめちゃカッコいい!久しぶりにハリウッド映画で素直に楽しめた。

仕事の鬼の敏腕刑事がアル・パチーノ。盗みのプロフェッショナル集団を率いるのがロバート・デ・ニーロ。二人の「男」が互いに認めあいながらも、譲り合わず、闘う。

二人の男っぷりがシブシブでいい。最初は互いを知らないが、途中でその存在を知り、またその力量に敬意を表しあい、でもそれぞれの「仕事」に徹して銃を向けあう。

この映画では、どがーん、ばごーん、ずがーん、がほとんどない。極悪非道を絵に書いたテロリストが建物や乗り物を乗っ取ったりしないし、たまたま居合わせた不死身の男が大活躍もしない。魅力的にキャラクタライズされてはいるが、リアルな二人の男が戦う。それでも3時間近く飽きさせないのは、映画の魅力は必ずしも撮影予算と比例しないことの証だろう。

どがーん、はないけど、だだだだだ、は出てくる。冒頭で現金輸送車を襲撃するシーン、そして、後半の銃撃戦は、この映画の魅力のひとつ。ただし、やたら爆発炎上はしない。むしろ、リアリズム。銃撃戦では手持ちカメラを多用して、迫真の場面に仕上げている。

もうひとつ、この映画では男たちがそれぞれ女性について悩んでいる。ご多分に漏れず、男たちは家庭がうまくいっていない。その悩む姿は、ステロタイプというより、普遍的と言いたい。うまくそれぞれの寂しさ、孤独さも描きながら女性との関係を見せているのがいい。

何と言ってもクライマックスは最高。空港の滑走路で、飛行機のライトを浴びながらの光と影の中のアル・パチーノとデ・ニーロの対決シーン。それは、打ち合いではなく、決闘なのだ。互いに認めあった二人が「男」をかけて一瞬の勝負を挑む。その緊張感は、昔の西部劇や時代劇を彷彿とさせる。勝負がついて、やたらしゃべらないのがまたシビレた。

なにかこう、映画全体が最近のハリウッドのアクション映画に反論してるように思えた。おめーらやたら爆発させればいいってもんじゃねえよ。不死身のヒーローじゃなくても、じゅうぶん魅力的な男は描けるさ、って。

監督・脚本はマイケル・マン。この人、50年代から西部劇なんか撮ってた人じゃないっけ?なーるほど。一言いいたくなったんだ。でも、一言いうために、このぶあつい物語のシナリオを一人で書き上げたのか。すごい執念だ。

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98/5/3「バウンド」(ビデオ)

〜エロスが薬味の極上サスペンス〜

「フェイス/オフ」に出ていたジーナ・ガーションが主演だというんで観てみた。いい女なんだ、これが。

レズビアンの映画だ、という説と、サスペンスだという二つの矛盾する説を前もって仕入れてたんだけど、矛盾してなかった。どっちもホント。

男勝りな盗みのプロ、ジーナ・ガーションが、やくざの情婦とレズビアン同士の恋に落ち、やくざをはめて金を奪って逃げようとたくらんだが・・・てな話。ジーナの方が計画を立てていろいろやるのは情婦。ジーナは隣の部屋で聞耳を立てている。この状況がなんだかサスペンスでいい。ジーナは前に相棒に裏切られて刑務所に行っていて、やっぱり情婦が裏切っちゃうんじゃないかとか、ドキドキする材料は豊富。

計画は途中までは予定通りだが、だんだんどうなるかわからなくなっていく。やくざが親分に渡すべき金を奪っちゃうんだけど、女達に感情移入したり、ときにはやくざの方に感情移入してお金がないの親分にばれたらどうしようとか、とにかくハラハラしっぱなし。

レズビアンを描いてまずつかみはオッケー。そしてあとは先の読めない展開でひたすらドキドキさせ、観客の視線をつかんで離さない。よーくできた映画だ。とにかく純粋にサスペンスとして最近観た中でもかなりの出来。

ぼくはちょっとこないだ観た「GONIN」と比べちゃった。あっちもヤクザの金を奪おうとする話で、わずかにホモセクシュアルなシーンがある。で、どっちが面白いかっていうと、こっち、「バウンド」が30倍くらい面白い。

あっちは登場人物のキャラクターがとっても面白いんだけど、ある意味ではそれだけ。あとはひたすら死に様を楽しむしかない。「バウンド」にはサービス精神がある。「GONIN」は設定が好きな人にはたまらないだろうけど、そうでもない人にはそうでもない映画で終わっちゃう。「バウンド」は設定も魅力的なうえに、それ以上の娯楽性がある。レズビアンに顔をしかめる人も、展開は楽しめるはず。そういうところをねえ、邦画は見習わないとイカンと思うなあ。観客におもねる必要はないという人もいるだろうけど、少しはおもねらないと、製作費が回収できんじゃないか。

な。だろ。

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98/5/9「エイリアン4」

〜エイリアンはフランスの気鋭さえ食う〜

ほんとうは「マッド・シティ」を観るはずが、一緒に行った友人の気まぐれで強引にエイリアンにさせられた。「エイリアンに少し共感できるらしい」とその動物好きの友人はワクワクしながら言うのだ。うーん、ぼくはビデオで観ればいいと思っていたのに。

「デリカテッセン」のジャン=ピエール・ジュネが監督というのはまあ観たい要素ではあった。まったくハリウッドは貪欲に他国の監督を起用する。そのへんはえらいけどね。

で、確かに同監督が「デリカテッセン」で見せた素敵な悪趣味はそこここに感じられた。エグいシーンがふんだん。後頭部を切り取られた男が自分の脳みそを手でちぎって確認する、とかね。

でも全体としては、ジュネ監督がエイリアンを料理したというより、エイリアンが監督を食っちゃったカンジ。これは悪い意味でなく、それほどエイリアンというソフト自体がチカラを持ってしまっているということだと思う。とにかく今やエイリアンは誰が撮ろうがエイリアンなんだな。

今回、エイリアンは人間に近づき、リプリーはエイリアンに近づく。第1作から思い出してみると感慨深い。エイリアンとリプリーはずっと愛し合っていたのかもね。

ところで、ぼくは遺伝子工学はよくわからんが、前作で死んだリプリーの血液からクローンをつくったらお腹の中のエイリアンまで再生するのはおかしかないか?さらに最後に登場する進化型エイリアンが人間に近いのは「宿主の影響を受けたから」らしいんだけど、人間を宿主にしたエイリアンは第1作からしてそうだったのに、なぜ?まあ、どうでもいいけど。

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