98/5/20「卓球温泉」

タイトルからしてキワモノかな?と思ってた。時間が空いたんでじゃあキワモノ観るか、ってんで観たんだけど、キワモノでは決してなかった。むしろ美しい日本映画だった。

松坂慶子演じる主婦が家庭をかえりみない夫と高校生の息子を残して家出する。たどり着いたのは新婚時代に訪れた温泉。「竜宮温泉」と書いて「りゅうぐうおんせん」と読む。そこは主人公の日常と同じようにさびれていた。そこへ卓球。この地味なスポーツで温泉の人々と主人公が輝きを取り戻せるか、という物語。

松坂慶子なんて何の興味も持っていなかった女優だけど、実によかった。疲れた主婦、でもカワイイ主婦、芯は強い女を、精一杯演じていて魅力的だ。

そして「卓球」がいい。「相手を負かすことではなく、続けることが大事」をスローガンに、ラリーの応酬のシーンが幾度も出てくる。その場面がなんとも美しい。

ストーリーがよく練れている。物語に矛盾や破綻がなく、きちんと閉じて終わる。当たり前のことだけど、これをちゃんとしてない日本映画が多いから、それだけでも素晴らしいと思う。

美術もいい。さびれてはいるが歴史のある温泉街を美しくつくっている。音楽がちょっと古めかしすぎる気がしたが、これはおそらく日本映画らしい日本映画にしようという演出の狙いかも。

音楽に限らず、全体的に古めかしすぎやしないかとも思った。のんびりしてる。それはキライじゃないけど、ギャグがあまり笑いにならないなど、「弱い」気がした。

とは言え、期待してなかったことも手伝って、かなり楽しめたし、感動した。でも客の入りは悪い。「Shall We ダンス?」の製作チームが再び、という宣伝文句で、実際ストーリーも(たまたまだろうけど)よく似た構造なのに、どうしてだろう。

まあ、とにかく、観て損はないですよ。

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98/7/14「不夜城」

久しぶりの邦画だけど、これ、監督がリー・チーガイという香港人だから、邦画と言っていいのかわからない。角川書店はじめ製作は日本だし、舞台は日本だから、邦画といえば邦画だけど。

金城武演じる健一は歌舞伎町を根城とする中国人暗黒社会で他人を信じない青春を過ごす。彼の元へ佐藤夏美と名乗る女が身を寄せる。互いに愛し合いながらも信じきれない悲しさを持つ二人が、暗黒社会の抗争に巻き込まれて破滅へ向かう。

と、大まかなストーリーはわかったんだけど、とてもわかりにくい話ではあった。中国人の名前が飛び交いながら大量の登場人物が出てくるので、誰がどんな名前で誰と誰がどんな関係なのかがさっぱりわからない。

そんな設定の細かい部分はどうでもいいじゃん、ってとこもあるけど、今度は健一と夏美が愛し合う過程があまりにとんとん拍子で。お前らいつの間に寝たの?って。

それさえもどうでもいいとしても、夏美役の山本未来(山本寛斎の娘なんだって)の魅力のなさはどうでもよくない。健一がなんで命はってまでこの女と恋に落ちるのか、解せんのだなあちっとも。ぼくだったらいやだもん、こんな女。いや性格がとかじゃなく、ルックスが。エッチしたくねえよ、こんなのと。ましてや命かけるなんてまっぴら。

もともとは葉月里緒奈に決まってて、でもなんかもめて降りただか降ろされたんだかで、山本にお鉢が回ってきたらしい。葉月だったら良かったかって言うと、やっぱいやだったと思うけど。

なんかとにかくねえ、眠たかったね。途中までだらだらだらだらちっとも魅力的じゃない山本未来と主人公のシーンでさあ。最後のアクションシーンも、少しドキドキしたけど物足りないし。なんつーか、何がしたかった映画なんだろ。あ、そうか、金城君でアジア各国で稼ごうとしたのか。それは成功かもね。

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98/7/28「アンドロメディア」

〜子供だましじゃ子供はだません〜

いまをときめくSPEED主演。夏休みの小中学生を狙ったTBS、ライジング(SPEEDの所属プロダクション)製作。原作は渡辺Cozy(この男、じつは高校の同級生。Cozyとは学生時代に「こうじ」という名前なのにことあるごとに使ってた英語風の名前。なんかバカでしょ)、監督は三池なにがし(下の名前忘れたけど「中国の鳥人」などで評価は高い)。

まーとにかく、SPEED主演で夏休みに公開すれば当たりそうなもんだけど、さらにTBSがかなり大量のTVスポットで宣伝したにも関わらず、客は入っていない。ぼくが見た平日の4時の回で、三十人くらいか。マリオンの小屋でだよ。これはもう、興行的に失敗でしょう。

興行的に失敗したのは、内容的に失敗だからで、ぼくはこれ、今年の邦画のワースト。

SPEEDのひとり島袋寛子(だったと思う)が事故死。その父は優秀なプログラマーで、人間の意志をコンピュータ上でよみがえらせるプログラムにより娘をバーチャルに再生した。それを追う悪者どもと、バーチャル娘を守る少年と他のSPEEDメンバー。

この設定はほんとうはなかなか魅惑的な題材だと思うんだけど、この映画はその魅惑に気づいていないかのようだ。意志を持つバーチャル娘で、ネット上を自由に動けるらしいんだけど、なぜか彼女は、少年が持ち出したノートパソコンから出ない。彼女と少年たちはバーチャル空間と現実を行き来して見たこともない映画になっておかしくないのに、この映画ではバーチャル少女はただの箱に捕らわれた不自由な存在。愛する少女を守らねばという普遍的というか古くさい行動原理の少年と、ただひたすら守られることに甘んじてるバーチャル少女に、さらにひたすら少年とバーチャル少女を見守るその他の少女にまたさらに古典的に嫉妬により裏切る少女。つまらん。

そしてそういうキャラクター設定はとうぜんSPEEDのメンバーを少年の物語のわき役に押しやる。そう、この映画、SPEEDが主役じゃないの。友人が言ってたんだけど、アイドル映画じゃない。

さらにさらに、この物語は少年の冒険談にさえなっていない。彼は目標を持たない。バーチャル少女をどこかまで守り通せば何かが起こる、というわけではない。さらにさらにさらに、悪役たちさえいったいバーチャル少女を襲って何をしたいのか、皆目わからない。クライマックスで悪役の竹中直人がついにバーチャル少女を奪ってキテレツな乗り物に乗って機械の中を下がっていくのだけど、下がった先で何が起こるのかちっともわからないから、ドキドキもヒヤヒヤもしない。あまつさえ、竹中はどういう理由かわからないのだが勝手に自滅してしまう。少年は少女を守ったわけじゃないの。最後には何もできなくてただ運命に救われる。さらにさらにさらにさらに、バーチャル少女の義理の兄が敵役で登場するんだけど、この男がなぜ悪に走ったかの説明もないまま、勝手に反省して「鉄男」状態になってこれまた自滅する。誰も彼もどこへ向かって走っているのかわからずに走りまくり、わけもわからず物語は終わる。いかにSPEEDファンの小中学生もこれではワクワクしようがないじゃないの。

この映画、半ば勝手な妄想だけど、ぼくは製作者たちの思い上がりを感じる。監督じゃなくて、製作者、つまりTBSとライジング。SPEED主演で映画つくれば儲かるじゃろ。はやりのバーチャルものなら当たるじゃろ。なーに半年もありゃ映画なんてできる。いやべつにいい映画になんてしなくっていいの。対象は子供なんだから。という傲りを感じる。

そして、やっぱ女はかよわく男はそれを助けなきゃいかんじゃろ、みたいな古くさい価値観により脚本にかなり介入したんじゃないか。少なくとも、かなり脚本がズタズタだったことは、物語の構成にあまりにもアラが目立つことからもうかがえる。

ぼくは製作者が脚本に介入してはならないとは思わないし、むしろ積極的に映画に介入すべきだとさえ思う。映画に対してクオリティ面でも興行面でも責任を負うのだから、どしどし意見を言うべきだ。でもそれは、無反省な思い込みやたんなる金もうけしか映画に求めない人間にはその資格はない。マーケティングってのは、金もうけじゃなく、愛なんだよな、実は。

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98/8/10「アンラッキーモンキー」

〜海外でほめられていい気になるなよ〜

「弾丸ランナー」「ポストマンブルース」のサブ監督の三作目。「ポストマンブルース」は去年公開された邦画の中でも群を抜いて気に入った映画だった。ひた向きで真摯だけど真摯すぎて観客のこと忘れがちな邦画の中にあって、突き抜けたパワーで娯楽色満天。ひたすら映画の都合のために偶然を積み重ねて進むストーリーの図々しさ。スピード命で「走る」ことを映像のテーマに据えたシンプルさ。どうでもいい回想シーンをはじめとしておもしろけりゃいいじゃんなギャグ満載のサービス精神。そうした要素はどれもこれも、日本映画にぼくが足りないと感じていたこと、だった。まあ、もともとぼくはこういうアクションコメディが好きだってこともあるけど。岡本喜八が好きだし。そう言えば学生時代に撮ったたった2本の8mm映画も走るだけのものだったっけ。

そんなこんなで、個人的にいちばん楽しみな映画だったんだけど、公開後の噂では「いままでとちがう」って話ばかり。こりゃつまんないかな、と思いつつ観たら、やっぱりつまんなかった。

銀行強盗しようと覆面かぶって銀行の前まで来てみたら、まったく同じ覆面の男が札束入りのバッグを持って警備員に追われながら出てきたところだった。しかもはずみでそのバッグを手にしてしまい逃げ出す羽目に・・・。あれ?なーんだ、いままでと同じじゃん。いいじゃん、いい出だしじゃん・・・。でもその後の展開はちがった。

主人公は計画はしたけどやってはいない銀行強盗犯として逃げなきゃならない。それが「世界一不幸な男」の物語になるはずなんだけど、最初の方でもうひとつの「不幸」を背負ってしまう。そっちの不幸はシャレにならない不幸。だもんで主人公はヘビーに落ち込んじゃって物語はひたすらどよーんと進む。「世界一不幸な男」ってのはとてつもなく面白そうな題材なのに、それを本当に悲しく不幸な話にしちゃうとただ悲しいだけで救いのない映画になっちゃう。

そうなっちゃったのは監督の狙いらしい。パンフのインタビューによれば「(前作の)底に流れているのは、人間はそれでも生きていく、というような重いテーマであったりもするんですけど、伝わってないんじゃないかな、と。」こう考えてコメディ部分を減らして重くしたんだと。なんでそんなこと考えちゃうかなあ。なんで「テーマを伝えなきゃ」なんてする必要があるんだろう。いや、どうして「コメディだとテーマが伝わらない」と考えるのか。あんたは実はコメディを馬鹿にしてるのか。コメディはワンランク下だとでも言うのか。コメディで笑ってる人はテーマが見えてないアホで、感動映画に涙する観客はテーマを見通すチカラがあるおりこうさんなのか。だいたいテーマってそんなにえらいのか。

さらにこの監督、なぜテイストのちがう映画を撮ったかについて「勉強するにはいいタイミングかな」とかのたまう。「ポストマン」だってコメディやアクションの演出が文句なく上手だとは言わないぞ。もっとそっちを勉強せんかい。それと、インタビューから海外の映画祭での評価を気にしてることもにおってくる。実際、前2作ではベルリンなどの映画祭で評価されたらしいんだけど、そんなことでいい気になるな。映画祭で海外の映画通にいくらほめられても、公開されたのは歌舞伎町のマイナーなミニシアターじゃないの。映画通より、ふつうの観客を相手にしろよ。前2作では、そういう、映画通を相手にしてない感じがまたよかったのにさあ。

歌舞伎町のミニシアターとは言え、昼間の上映に数十人の観客が来ていた。不思議と、大して笑える場面でもないのに、よく笑い声が聞こえた。思うに彼らは、「ポストマンブルース」で味をしめてこの映画を見に来たのだ。そして、笑いたかったのだ。「世界一不幸な男」の物語を見て、映画の中の男の不幸と一緒に、自分の小さな不幸や悩みも笑い飛ばしたかったのだ。思ってたほど笑えなかったけど、笑いに来たのだから元とるためにも笑っていたのだ。きっとそうだぞ。かわいそうじゃないか。切ないじゃないか。海外の映画祭より、日本の映画ファンの気持ち考えて映画つくらんかい。わかったな!

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98/8/18「Samurai Fiction」

〜古くて新しいチャンバラ映画〜

ミュージックビデオ界で活躍する中野裕之の初監督作。もともとは奥山和由のシネマジャパネスクのラインナップだったんだけど奥山解任でこの映画も手放したのか、シネカノン配給により有楽町シネラセットでの単館興業となった。

音楽は布袋寅泰で重要な役で出演もしている。他にも吹越満と風間杜夫が主演級の他、緒川たまきに夏木マリ、藤井フミヤ、谷啓など極彩色のキャスティング。普通の映画じゃないにおいがプンプンだ。

ぼくはこの映画、監督が監督だけに、ビジュアル重視のスノッブな映画だという先入観があったんだけど、予想に反して非常にしっかりした骨組みのストーリーが展開されて驚いた。映画らしくない映画だろうと思ってたらかなり正統な映画だったの。

ある藩にふらりと現れた風祭という浪人。めったやたらに腕が立ち、殿様に気に入られて仕官するが、大事な刀を持って姿を消す。それを追う家老の息子。まっすぐな心根のピュアな男だが、剣の腕は頼りない。風祭に立ち向かうがあっさり斬られケガをする。救ったのは溝口と名乗る中年の浪人。その家で美しいが気丈な娘に看病されながら、再度風祭に挑む決意で過ごすのだが・・・てな話。

ほとんどモノクロの画面で、往年の時代劇のような映像に、布袋の手によるロックミュージックがガンガン鳴り響く。そこには意外なほどギャップがなく、とくにチャンバラ場面はムチャクチャカッコいい。よく知ってるけどでも見たこともないようなテイストの時代劇になっている。

そうした斬新さの中で進む物語は、途中までは古典的サムライ映画のようでもある。まず風祭を布袋がうまく演じている。というより、セリフが極端に少ない虚無的なキャラクターなので、ガタイのでかい布袋がむっつりしてるだけで演技になってしまう。ぼくはファンでも何でもないんだけど、ほれぼれとしてしまった。そして吹越が家老の息子をコミカルにキュートに演じ、腰は低いけど実は腕の立つ聖人のような浪人溝口の役を風間が見事にこなしている。いつもは都会的で美女の緒川たまきは無垢だけど気が強い少女を可憐に演じるなど、シナリオのキャラクターづくりと、それに沿った役者の役作りが、この上ないほどうまくいっている。中野監督の映画全体をコントロールする力量を感じた。

物語は家老の息子を狂言回しにしながら、だんだん風祭と溝口の二人の浪人の対比と対決になってゆく。ひたすら虚無的だった風祭が実は心の中で世間への憎悪をたぎらせていたり、剣の達人溝口がなぜ殺人を避けるようになったかなどがわかるに連れ、映画はただのビジュアル指向ではない奥行きの深さを見せはじめる。

溝口の言うことがちょっとあまったるい理想主義で、物語の結論もそこへ落ち着くのがいまひとつ気にくわない。溝口の姿勢は国際社会における優柔不断な日本とも通じ合ってしまうからだ。むしろ風祭の姿勢の方が、いまの日本人には説得力があるんじゃないだろうか。

なんてことも、気にくわないってほど気にくわないわけでもなくて、見終わった後、スカッとする久々の娯楽作だった。とにかく映画らしい映画で、なおかつ新鮮なトーンなのがいい。そして何より、シナリオやキャラクターを大事にした映画づくりなのがうれしいじゃないの。

上機嫌でパンフを買ったら、形態に懲りすぎてて読みにくくて少々腹が立った。オシャレにすることに先走り、読み手への親切さを忘れている。その他、ポスターなど周りのムードに気取ったスノビズムがぷんぷん臭ってイヤだった。それで気の利いた若者はいくらか来るだろうけど、そんなやつ何人いる?この映画、そのへんのお母さんが観ても楽しめるのに、なぜわざわざ壁を厚くするのか。松竹はこの映画を捨てないで、しっかり宣伝予算を組んで全国ロードショーすべきだった。「SADA」よりよっぽど客来たろうに。これじゃあと一週間もすれば公開終わってビデオ屋行きだ。あーもったいない。

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98/8/31「鬼畜大宴会」

〜もっともマジメなスプラッター映画〜

大阪芸大の学生が卒業制作でつくった16mmの自主映画。ぴあのフィルムフェスティバルで準グランプリに選ばれ、そのキテレツぶりに世間が注目して、今回ユーロスペースで劇場公開された。タイトルから誰しもコメディをイメージするだろうけど、人間が鬼畜になっていくさまを描いたヘビーで不快な映画だという。

そうした前情報から、およそ映画らしくないというか、映画であることからはみ出そうとしている映画かと思ったら、意外なほどまともな映画だった。ただあまりにまともに「鬼畜」に取り組んでいるから映倫は通りそうもない。でも逆に言えば、映倫さえクリアすればこれ、立派な商業映画たりうる。例えば「アンドロメディア」なんかよりよっぽど面白いし、よくできている。金払う価値はあるぞ。もちろん、アマチュアがお金やり繰りして撮ったんだから、技術的な部分はさっぴいての話だけど。でも技術がアマチュアくさくてひどいってことでもない。役者の演技も含めて、かなりのレベルだと思う。

なぜか70年代。学生闘争の一セクトらしき数名の集団が、だんだんと理性とモラルを失ってまさしく「鬼畜」と化し、殺人とセックスの「大宴会」を繰り広げるという物語。だからタイトル通りの映画なわけ。

なぜ70年代の学生闘争なのか。それは製作者たちに聞いてみなくてはわからないが、鬼畜と化す人間集団を学生が無理なく演じられる設定であるのは確か。また、全共闘世代を批判しようとかあざ笑おうとかいう意図より、興味や憧憬の方を感じる。

シナリオがよくできていて、人間がモラルを失う過程をなかなかの説得力で描いていく。だからと言って、モラルが無くなると恐いよね、と教訓めいたことを言いたげな気もしない。むしろ、モラルが無くなると、ぼくたちはどこまでいっちゃうんだろう、ってとこをとことん大真面目に追及して組み上げた物語に思える。そこがすごい。

こう書いていくと、なにかひどく真面目くさく観念的な映画に思えるかも。でもちがうわけ。モラルを失う過程をスプラッターで描いている。それが最大の魅力。当然、アマチュアの映画だから、一時期はやったハリウッド製のスプラッターとは比べようもないほど安っぽいわけだけど、でもすごいエネルギーなの。例えば、頭がライフルで吹き飛ばされ下半分だけ残る。どう見ても一生懸命つくった作り物。でも吹き飛んだ後しばらくひゅるひゅると血が吹き出ていたり、臓物をしっかりつくりこむことで、限りなくリアリティはある。目で本物に見えなくても、脳みそは本物として受けとめている。気分悪くなる。そしてそこには、気分悪くなる気分の良さがある。

いわゆるスプラッター映画はそういう気分悪くなる気分良さを楽しむ映画だったけど、それはまあただの無邪気な悪趣味。でもこの映画は「人間とは気分悪くなる気分の良さを楽しんだりもするだろ。そういうとこあるだろ。そこにも人間の本質があるだろ」と主張しているようでさえある。なにかこう、自分でも覗き込みたくない心の中の暗闇を、映画を観ることを通じてひんむられたような気になってくる。そういうところは、「CURE」とちょっと似てる。ぜんぜんちがうけど。

最近、映画や小説を見てると、酒鬼薔薇くん事件や、ひいては宮崎勤事件のことを思い出すことが多い。そういうテーマの物語が多いってことかもしれない。こうした物語は、自分の中にある暗闇をかいま見て現実と折り合いをつけるために必要なんじゃないか、とよく思う。もう少し言うと、こういう物語を消費することと酒鬼薔薇のような行動を実際に行うことは同じことだ、とかいうのは考えすぎ?

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98/9/30「大怪獣東京に現る」

〜企画倒れは演出のせいかな?〜

「怪獣が画面に登場しない怪獣映画」と聞いていて、そりゃなんだか面白そうだなあ、と思って見に行った。「岸和田少年愚連隊〜望郷〜」と二本立て。でも時間がなくてそっちは見れなかった。原案・シナリオがNAKA雅MURA(と書いて「なかむらまさし」と読むそうだ)で、岸和田少年愚連隊シリーズの人。というわけで、すんげえ期待したんだけど。

舞台は福井県の小さな町。福井県だけど、日本のどこにもありそうな町でまあ日本代表として出てきているんだろう。ただしちがうのは、原発がある町だってこと。

で、テレビで「東京に大怪獣が上陸」ってことが伝えられ、最初はへーってかんじだったのが、だんだん共同体として壊れていくことを描く前半はコメディタッチ。なんだけど、これがちっとも面白くない。ありありと笑かそうというシーンがいっぱい出てくるんだけど、もう、ホント、まったく、笑えない。

さらに、「壊れていく町」の表現なのか、ちがう場所を何度となくカットバックを多用して見せるんだけど、そのカットバックが、なんつーか自主映画くさいっつーか、意味深にしようとして大失敗でダサダサ。

とにかく、この映画は、設定はむちゃくちゃ面白いのに演出でつまらなくなっている、とぼくは思う。笑わせる、ということは何か、この監督はもっと考えた方がいい。

それと、録音がヒドイ。セリフが3割くらい聞き取れない。ひょっとするとフィルムの状態が悪いのかもしれないけど。とにかくセリフが3割もわからないと、かなり見ていてツライ。

ギャグが笑えないうえにセリフは聞こえないので、かなり不愉快になった。映画館を出たくなった。このあたりは、録音や演出にアマチュア臭さを感じたからで、1800円もとるなら、もっといいスタッフでやってほしいもんだ。

最後の方で映画がかなり趣を変えてシリアスになる。そっちのシーンの方がよかった。実はマジメな物語だったのだ。いっそ最初からマジメな映画にすればよかったのに。いや、最後にこうなるためにも、前半の狂乱は必要か。やっぱり監督が悪いね。もっと勉強して出直してこい。

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98/10/14「がんばっていきまっしょい」

〜美化した過去に何の意義があるのか?〜

がっかり。

この映画、みんなえらくほめてて、期待して見に行ったんだけど。うん、がっかり。

70年代後半の松山。高校生になった主人公「悦ネエ」は前々から海岸で練習風景を見て憧れていたボート部を志願するが、女子部がない。ガンコで行動的な悦ネエは教師と強引に交渉して女子部を創設、クルーに必要な残り4名の仲間を集める。練習する。大会に出る。当然負ける。悔しくてさらに練習する。そして・・・てな話。

何にがっかりしたか?早い話退屈。エモーションが一向に盛り上がらない。

意図的に、なんだろうけど、シナリオから、映像から、人物たちの気持ちだのを表現する要素を一切排除している。悦ネエが、仲間たちが、なぜつらいボート部の練習に向かうのか。そこには「ボートというスポーツに取り組む」以上のどんな意義があるのか。そのあたりはまったく描かれない。だってそうでしょ、普通だったら「社交ダンスに打ち込みダンス教室のマドンナに接近することが、問題はないけど単調な日常からの逸脱を意味する」みたいにさ、主人公が立ち向かうことに複合的な意義があり、そうしたことがきちんと描かれるから、観客は主人公に共感したりがんばれと応援したくなったりするわけでしょ。「がんばって」にはそういうのがないから「悦ネエ、がんばって」と言いたくはならない。「ま、がんばれば?」ぐらいな気持ちにしかならない。

「ボートと主人公」のまわりの事柄が、ほとんどない、あるいはボートに重なってこない。まわりのことがらは少し出てくる。同じボート部所属の男の子が好きなんだけど、新体操部のなんとかちゃんが接近してるのを目撃しちゃう。けっこう進学校で共通一次第一世代なんだけど、成績はさえないうえに数学教師は陰険。家業がクリーニング屋で、もう高校生なんだし手伝いもしたいし大人と認めてもらいたいんだけど、両親ともわりと自分にかまってくれない。そういった事柄は、物語の端々に登場するんだけど、それとボートが一向に関係してくれない。ボート部でがんばることが、恋や勉強や家族と彼女とにどんな影響をもたらすのか、どんな意義があるのか、映画はまったく教えてくれない。そんなイジワルをされると、ぼくなんかただ映画からの興味が薄れちゃうだけなんだな。

わずかに、途中で唐突に登場するコーチ役の女性と主人公との会話の中に、ちろりと彼女のホントの気持ちがかいま見える。「私、ボートなくなったら、何にもないんです。」このセリフに、この映画のやりたかったこと描きたかったことが集約されてるんだろうな、とは思う。そして、このセリフには、誰もが共感する要素が潜んでいる。「ぼく、仕事と家庭がなくなったら何にもないんだよね」と言い換えたらこれは、ぼくの話だ。

でもこのセリフひとことで2時間ずーっと共感し続けるほどぼくは親切じゃない。そこを描きたかったなら、そこを中心に掘り下げろよな。

あとねえ、ぼくがこの映画でイヤだったのが、共通一次第一世代といえばぼくのたった2つ上の学年で、つまりはほとんどぼくの高校時代と考えていい設定なんだけど、そしてぼくだって鹿児島の田舎の学校に通ってたんだけど、その頃の田舎の青春はあんなにピュアじゃないよ、くさいよ美化しすぎだよ、ってとこ。だいたいさあ、1976年といえば、たしかディープパープルはとっくにライブ・イン・ジャパンを出してたし、KISSだのQUEENだのもちょうど流行ってたころだぞ田舎の高校生だからって馬鹿にすんなちゃんと聞いてたぞぼくなんかハイウェイスターのギターソロをテケテケテケテケ一生懸命コピーしてたんだぞ。ラグビー部のやつらは部室でたばこ吸ってたし、ひとつ下の後輩はバイク盗んでおまけに無免許で捕まったぞ。共通一次なんてクソッくらえと思ってたし、でもあんな非人間的な試験のために受験勉強してたんだぞ。すさんでたし汚れてたし、それでもおれの青春はそんな醜いとこまで含めて美しかったさ。あんなきれいな海でボート練習して大会に出てビリにならなかったから抱きあって泣く。悦ネエの青春はホントにそれだけだったのかい?ホントはあの男の子とあのあとペッティングぐらいしちゃったんじゃないの?

なんかそういう、同世代として真実味が皆無というか、大人がずいぶん後になって高校時代を思い出してきたない部分は忘れたふりしてやたら美化して語ってる、ってかんじがしたわけ。そんな物語にどんな意義があるのか。ぼくにはわからない。いろんなところでいろんな人がほめてるので、やっぱしぼくの見方が浅はかだったのか?と疑いもしたけど、やっぱりイヤだこの映画、その部分だけ考えてもイヤだ。

暴論を吐けば、いまこの映画を見て喜べるのは、自分の青春の不健全な部分にフタをしたがってる大人だけだと思う。少なくとも、ぼくらよりもさらにねじ曲がったモヤモヤをかかえてコンビニにたむろしてるいまのティーンエイジャーには何の感動も興奮も巻き起こせないんだな、たぶんな。

ほぼ同じ時代を描いている「岸和田少年愚連隊」があれほどぼくのエモーションをかき立てたのは、自分がそうしたかった青春を描いているからだな、たぶんな。

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98/11/4「ヒロイン!」

〜ドラマが走り出すと笑える!〜

久々に邦画で満足。

娘を育てながら商店街の酒屋をひとりで切り盛りするパワフルおばさん(室井滋)。新設されたスーパーのオーナー夫人(中川安奈)が小学校時代のライバルだったことを知り、夫人が率いるママさんバレーチームに対抗すべく、商店街のおばさんたちを招集して「難波ボンバーズ」を結成するのだが・・・てな話。

上のあらすじを読めばわかるように当然コメディ映画だ。ところが最初は、ギャグシーンに笑えなかった。わかりやすいところで言うと、中川安奈が金持ちのいかにもイヤな女をマンガのように演じるのだが、そんなあんまりマンガみたいに描かれても笑えはしないよ、といったかんじ。なんかこう、そういう笑わせ方は古いんじゃないスか?と。

ところが、そんなギャグはこの映画の塩コショウ程度に過ぎないことがだんだんわかってくる。ドラマの進め方がうまいのだ。

まず登場人物たちのキャラクターがしっかりしている。主人公と敵役のオーナー夫人は当然としても、暴走族上がりのけんかっ早い魚屋の姉ちゃん、チームのまとめ役の美容院のおばちゃん、オカマにしか見えないおばちゃん、謎めいたインド人女など、まずチームの面々がそれぞれきちんと個性を持っている。それに主人公の娘と母親、商店街の人々、コーチ役を引き受ける新聞記者。そうしたひとりひとりがしっかりと物語の中での役割を与えられているのだ。

その上で、こうした物語(最初はどうしようもないチームだけど懸命に練習して上達する)の定石通りに映画は進んでいく。オーナー夫人の強いチームとの決勝戦というクライマックスへ向かっていくわけだが、クライマックスで様々のドラマの要素が最高潮に達するための葛藤や伏線が絶妙な計算のもとにはりめぐらされている。

その計算にまんまとハマって、ぼくの心はすっかり物語の車輪に巻き込まれる。そうすると不思議なことに、さっきは笑えなかったギャグに大笑いしてしまうのだ。中川安奈に対するいかにもな典型的な演出が、面白くてしかたなくなる。

そうか、これが映画だね。シチュエーションコメディだね、とあらためて認識した。例えば「お熱いのがお好き」なんて実にくだらない笑わせ方だ。男が女のふりをする。そりゃあわかりやすいギャグだけど、その部分だけとったら、なんて下品なんでしょう、で終わっちゃう。でも映画が転がっていくことで、あはははと笑う。笑うことは実は目的ではなく、ステーキで言えば肉ではない。目的ではなく過程であり、肉ではなくソースだ。では目的は、肉は、何かと言えば、実は物語なのだ。肉がうまけりゃソースもうまい。そしてまたソースが肉を引き立てる。

日本映画を見ていていちばん欠点だと思うのが、シナリオ段階での詰めの甘さだ。でもこの映画はまずシナリオが良く出来ている。その上で、演出面でのパワフルさも各シーンで発揮されていて、全体として良質のエンタテインメントに仕上がっている。

監督は三原光尋。シナリオは久保田傑との共同脚本。今後が楽しみな作家を発見することができた。

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98/11/17「踊る大捜査線 THE MOVIE」

〜TVの映画化と侮るなかれ〜

面白い!

97年に放映されたテレビシリーズの映画化。それはふつう、面白くないパターンでは?と予測してたら、いま一緒に仕事している信頼してるCM監督が「いやー、面白いんっスよー」と言ってたからちょっと期待したら期待を上回る面白さだった。

フジテレビのいい部分が結実したって感じの映画。

フジテレビはグループ会社の共同テレビとともに、80年代から一生懸命ドラマをつくってきた。最初は、くだらなかった。「翔んだカップル」をはじめマンガを原作にした「月曜ドラマランド」にはじまり、とにかくレベル低くてもなんでも、ドラマでエンタテインメントを泥まみれでつくってきた。80年代後半にはそれが「トレンディドラマ」のカタチで実り、フジテレビのグッドイメージの一翼をになうまでになった。でもそれらも、なんだか「ドラマ」だった。なんというか、「普遍的な映像ソフト」には至ってなかったと思う。一回観ればおしまいというか、ようするに「来週は保奈美が織田裕二とこうなるらしいよ」「ウッソー」てな会話を生み出してOLのランチタイムの話のネタになる、以上の価値は持てなかった。ワイドショーで現実に俳優同士が噂になる、のとほぼ同じレベルなわけだ。それはいかにもテレビらしいし、テレビはそれでいいのだが、それ以上では決してなかった。

フジテレビのドラマが「普遍的な映像ソフト」にまで昇華する可能性を持ちはじめたのは、「古畑任三郎」や「王様のレストラン」あたりからじゃないだろうか。「それは結局、三谷幸喜の脚本のチカラでしょ」と言う人がいるかもしれない。それも一理だが、少なくともトレンディドラマから、脚本家三谷幸喜を「使える!」と見出す方向へステップアップしたわけだ。それに三谷による日テレでのドラマは失敗している。例えば三谷幸喜を起用してすぐれた映像ソフトを産みだすべく様々の要素をコントロールするノウハウ、を培うことができたわけだ。

「普遍的な映像ソフト」への歩みの過程は、強烈なまでのハリウッド映画への憧憬と模倣の過程でもあった。それはいわゆる「設定のパクリ」のカタチでもあらわれていたが、そんなところをけなすより、ぼくは音楽の使い方に注目したい。フジテレビのドラマは音楽がちがう。明らかに映画を、ハリウッド映画を意識した使い方だ。いまはすっかり他局も真似してるが、昔の日本のテレビドラマの音楽はもっとちがったのだ。もっと単純だったと言ってもいい。「太陽にほえろ」の音楽の使い方、がもっともわかりやすいが、まあ、あんなかんじだった。あんなかんじではない、もっと映画っぽい音楽の使い方を意識してはじめたのがフジテレビだった。

ハリウッド映画の設定や音楽を、真似て、パクって、模倣して、それに学んでだんだんオリジナリティを獲得していったのが、フジテレビのドラマだ。そしてその集大成の、正真正銘のオリジナルソフトが「踊る大捜査線」なのだ。そこには「古畑任三郎」に終始つきまとった「面白いけど刑事コロンボの真似だよな」のような弱みがないのだ。スタッフたちが胸を張って「これがおれたちのソフトだ!」と宣言できるだけの独自性を獲得している。

何がオリジナリティかって?それはもう、見ればわかる。ちょこっとだけ言うと、日本の「刑事物をぶっこわしてつくりなおした」ところだ。「七人の刑事」と「太陽にほえろ」が構築し、いまの2時間サスペンスにまで連綿と受け継がれている「刑事物(探偵物)」のパターンを一度完全に壊し、ゼロから作り直している。そいでもってちゃんと「刑事物」なのだな。それは単純に刑事物をコメディにした、というものではない。明らかに新しい刑事物だ。

あえて言うなら、このソフトはフジテレビの到達点なわけだが、それが「これからへの出発点」なのか「いままでの終着点」なのかは、わからない。この秋のフジテレビのドラマを眺めると、どうにも「終着点で、これでおしまい」に見えてしまうんだけどね。

あれ?今回は、映画そのものの感想にならなかったなー。ま、いっか。

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98/11/18「落下する夕方」

〜女性のための純文学〜

「幻の光」のプロデューサー合津直枝が自ら脚本・監督した。原作は江國香織の同名小説。

女性向けの映画で男性にはわかりにくい部分もあるが、映像の独特のムードだけでも十分楽しめる。

健吾(渡部篤郎)と暮らしていたリカ(原田知世)はある日突然別れを告げられる。別の女性に一目ぼれしたというのだ。健吾が出ていってもいつか帰って来ると信じるリカは部屋を出ようとしない。そこへ華子(菅野美穂)が押し掛けてくる。彼女こそ、健吾の一目ぼれの相手だった。図々しい華子を追いだすことも出来ず、奇妙な共同生活が始まった。ってな話。

最初の方で、レストランで健吾が別れを切りだすのだが、二人がほとんど葛藤を起こさないのに驚いた。普通ならリカは泣きわめくはずだし、健吾はみっともなく平謝りする場面だろう。だが、二人がほとんど感情をむき出しにしない点にこそ、この映画のテーマがある。

二人はこれまで、本当の現実と向き合わずに一緒に過ごしてきたのだ。だから「別れ」というむき出しの現実に正面から向き合うことが出来ない。そんな二人は、この国の現代を端的に表しているのだろう。

そんな彼らの一見美しいけれどもどこか不安定な生き方は、映像に象徴的に表れている。いわゆるトレンディドラマのように現実感がない部屋。それを照明と構図に繊細に気を配りながら映像に定着している。初めての監督作とは思えないほど、演出が計算されている。

一方、物語としてやや物足りなかったのが、華子の描き方の薄さだ。彼女はリカと健吾の現実感のない生活に降ってわいた強烈な現実だ。華子と対比することでリカの不安定さが浮かび上がり、また華子と出会うことでリカの生き方に変化が生じる。わけなのだが、華子がどんなキャラクターなのかいまひとつくっきり見えてこないために、リカが何を発見しどう成長したかがぼくにはよくわからなかった。

でも女性にはあれでいいのかな?たぶんリカも華子も女の人の中に両方住んでいるのだろうから、あまりくどくど描かなくても十分よくわかるのかもしれない。

女性と一緒に見に行って、「なぜリカはあそこでああ言ったの?」なんて話をすれば、いい感じのデートになるかもね。

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98/11/19「生きない」

〜下世話なコメディにしないのがいい!〜

たけし軍団のダンカンが脚本・主演し、北野映画で長らく助監督を務めてきた清水浩がはじめて監督に挑んだ。オフィス北野の北野映画ではない初作品。

それぞれ数千万の借金を背負った人々が保険金目当てに沖縄で自殺バスツアーに出発。添乗員は新垣(ダンカン)。彼はこのツアーの企画者でもある。そこへ、まちがって事情を知らない女子大生美つき(大河内奈々子)も参加してしまう。計画を成功させるためには、彼女にはツアーの本当の目的を明さずに道連れにするしかない。ってな話。

この設定だけで十分面白い。だがこの映画が素晴らしいのは、その設定に頼り切って下世話なコメディ映画にしていないことだ。コミカルな場面はたくさんちりばめているものの、映画自体は死を前にした人間の切なさと可笑しさに誠実に向き合おうとしている。それが物語に深味を与えている。

決して長回しだらけなわけではないのだが、基本的にやたらカットを割らない。場面場面で、人々を「見つめる」演出をしている。その淡々とした演出が、ひとりひとりのキャラクターの切なさを優しく観客に提示することに成功している。撮影をはじめる前に、きちんと演出のコンセプトを考え抜いたことが感じられる、その誠実さがいい。

はじめは初対面同士で心を通わせず、時には反目しあっていたツアー客たちが、死を目前にした気持ちを共有することで、だんだんと連帯感を増してゆく。天真らんまんな美つきの存在も彼らの気持ちを解きほぐす役割を果たしている。彼女は、つまり天使だ。そんな和気あいあいのムードを冷たく叱責するのが新垣。彼は死神だ。ツアーの参加者たちが迷うことなく、死へ正しく厳しく導くのが彼の役目だ。

不思議なことに、美つきはツアーの目的を知らないのに、死へ向かう参加者たちと打ち解ける。一方、死神の新垣は孤独だ。彼こそがツアーのリーダーであり、中心人物であるはずなのに。このあたりのシナリオの構造は良く出来ていると思った。

いよいよ故意の事故を起こすべき場所へ向かってバスは走りだす。天使たる美つきはツアーの目的に気づき、皆に「生きよう」と呼びかける。死神である新垣は、その度に皆の心を死へ戻す。この天使と死神の闘いは、天使の勝利に終わる。「生」へ向けてバスは走りだし、新垣は一人残される。「バッカだよ、おまえらは・・・」と吐き捨てるようにつぶやく新垣は、言葉とは裏腹に寂しそうだ。彼は孤独に死へ向かう。

物語の途中途中で、参加者それぞれがなぜ死にたいのかが明されるのだが、新垣がなぜ死へ向かおうとするのかは一切語られない。そのことが、より一層、彼の寂しさを際立たせる。彼は死にたい理由を誰かに明かすことさえ許されてないのだ。

クライマックスで、皆が「生きよう」と思い直す様が意外にあっさりしていて物足りなかった。この部分は、もう少し「なるほど」と思える何かがないと、沖縄まで死にに来た男たちが思い直すだけの説得力がないと思った。ラストでニュース音声だけで語られるどんでん返しも不要じゃないかと感じた。

そうした若干の欠点は感じざるを得ないものの、ぼくはこの映画が気に入った。北野映画とはまた違う個性を、この製作者たちは誕生させた。ダンカン+清水浩の次回作がぼくは早く見てみたいと思う。

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98/12/21「たどんとちくわ」

〜キレる時、キレれば、キレない〜

市川準監督作はそんなに観てるわけじゃないけど、明らかにいつもとちがう色合い。簡単に言うと「静」の人が「動」をやった。そしてそれはなかなか面白いぞ。

役所広司演じるタクシードライバーがキレる「たどん」と、真田広之演じる売れない純文学作家がキレる「ちくわ」の二編で構成されている。といっても、純粋なオムニバスではなく最後に二編は交錯するんだけど。とにかくキレる二人の男の物語。

「たどん」の方がわかりやすい話になっている。最初の方で延々と、何組ものタクシーの客同士の不可思議な会話が繰り広げられる。確かに、タクシーに乗ったときの人々の会話は、運転手の側から見たら奇妙にちがいない。あるいは、突然他人のヘビーな物語に放り込まれる。あなたが破局寸前の恋人とタクシーに乗った場合を想像してもらえればいい。ぼくたちはけっこうとんでもない言葉を、見ず知らずのタクシードライバーの前で垂れ流してしまっているのだろう。そんなシークエンスで表現されるのは、運転手の孤独。乗客の物語に参加することは決して許されないのだ。そうだよな、考えてみればタクシードライバーって孤独だよな。

でも、彼の孤独は、そのままぼくたちひとりひとりの孤独でもあると気づかされる。ぼくたちが参加できるのは、たまさか親密な一人二人の友人や恋人との間の物語にすぎない。いや、へたをすると、親しいつもりの人間との間でさえ、うわっつらの会話しかできていないのかもしれない。

だから、この運転手がキレるのはわかる。おれだってキレるだろう、まちがいなく。そういう気分に素直になれる「たどん」はたぶん誰しも共感できるストーリーのはずだ。

一方で、「ちくわ」はわかりにくい。何しろ純文学作家だ。もともと普通の人間じゃない。その設定といい、延々垂れ流されるシュールなモノローグといい、あらかじめ「わかりにくいキレ方」を狙っているフシがある。

自分の小説が売れないことに悶々とする男が、なじみの居酒屋に久しぶりに行ったら内装が変わっていた。彼からしたら悪趣味に。客も悪趣味なやつらばかりだし、料理まで悪趣味。で、男はキレちゃう。

「悪趣味だからキレる」ってのはわかりにくいけど、何となくはわかる。「悪趣味」は主観だからね。そう言いだせば、ぼくだって街を歩けば右も悪趣味左も悪趣味。ぼくから見て悪趣味なやつらってのはもうそれだけで殺す理由に十分なる、なーんてことは思ったことない?

「ちくわ」では男の妄想と現実をふらふらと映画が交錯しながら、殺戮場面をファンタジックに描いている。ホント、これほど痛々しさのない殺戮シーンはないんじゃないか。何しろ、血が、ね。このアイデアは面白い。

と、いう、まあ、ね、ちょっとおれ、近ごろやばいな、キレそうだな、という人はこの映画を見て疑似的にキレればまた社会復帰できますぜ。そんな感じの映画。わりと、軽い印象。面白いけど。

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98/12/21「あ、春」

〜平成十年、三十五歳、冬〜

「たどんとちくわ」をシネマスクエアとうきゅうで見て、何となく年末だし歩くステップも軽くなってたんで、いきおいでテアトル新宿で「あ、春」を観た。これっぽっちも期待してなかったんだけど、これがまあ、涙ポロポロ。ちょっとどうしよう、おれ、この映画、ハマっちゃったよ!

相米慎二久々の監督作。言っておくけどぼくはとりわけ相米ファンではない。そりゃ、ぼくの学生時代は相米がデビューし、大活躍した時代で、「ションベンライダー」とか「台風クラブ」とかビビンと感じながら観たけど、別に日本の映画監督といえば相米慎二、と叫ぶほどではない。むしろ最近は「もう相米でもねえだろ」と観もしないで言ってたんだけど。

ヒロシ(佐藤浩市)は妻(斎藤由貴)の荻窪の実家で義母(藤村志保)と三人で暮らす証券マン。父とは5歳で死に別れ、実母(富司純子)は大衆食堂を切り盛りしている。そこへ・・・

うーん、これ以上書くとネタバレになっちゃうなあ。いや「そこへ・・・」のちょい先くらいなら書いても罪にならないと思うんだけど、この映画に限っては絶対絶対何にも知らずに観てほしいから、書かない。もう少しだけ言うと、「そこへ・・・」まではなーんかつまんなそうな映画なの。ああ、家庭劇ねー、てなもんで。まあ、最後まで家庭劇は家庭劇なんだけど。

じゃ、宣伝文句的なことを書こうかな。あなたが30代の男で奥さんも子供もいるなら、観なさい。泣くから。そして、考えるから。ある意味で、今何となく考えていることの答めいたものがあるから。

平成という寂しい時代に、家庭を持って生きる男の物語なのだ。なんかちょっと、立ち止まらなきゃイカンのじゃないか、そんな気分、あるでしょ。でもなかなか立ち止まる余裕すらないじゃないの。この映画のヒロシは、そんなあなたのかわりに立ち止まってくれる。立ち止まって、オロオロうろたえちゃったりする。そして、ちょっとだけ、あれ?おれが探していたのはこういうことかな?おれは何かを探していることにさえ気づいてなかったけど、でもおれは実は何かを探していて、その答の糸口はこれかな?とほのかにかすかに、感じる。そんなヒロシを通じて、あなたもきっと同じ体験をする。あ、そっか、おれ、探してたわ。そいで、探してたのは、これだわ、と、あなたも気づく。

この「あ、そっか」な気分がタイトルの「あ、春」に相似的に相関的につながってくる。だってさ、おれたちなんだか「冬」でしょ。儲かってるやつも貧乏してるやつも、奥さん美人でもブスでも、リストラ組も転職成功組も、ホントはみんな同じく「冬」でしょ。いやー私なんかおかげさまで春をすぎて夏ですよ、なんてほざいてる平成十年三十五歳がいたら、そいつはアホや。いまおれたちにとって正しい認識はまずおのれの「冬」を確認することであり、そいでもってこの映画を観て「あ、春」とヒロシと一緒に感じることです。それができたら来るべき21世紀には「夏」も見えてくるかもしれない。

人は気に入った小説を「愛読書」と称して時折読み返したりするわけだけど、ぼくにとってこの映画はそんな存在になりそう。「愛読映画」はおかしいから「愛映画」としよう。人生の節々で、ぼくはこの映画を何度も見返すことになるのだと思う。

というわけで、「あ、春」についてはもう少し書き足そうっと。その間に、あなたも、ぜひ観ておきなさい。

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