岩井俊二は天才だわ。
流行の監督だから、ちょっとひねた目で見始めたんだけど、参った。降参。
「演出をする」とはこういうことを言うんだろう。ワンカットの中の構図や色づかい、光の加減やピントに至るまで、「演出」がある。さらにそれを組み立てる際の演出もある。
例えばジャッキー・チェンの映画を見ると、その「肉体の見せ方を演出する」エネルギーに圧倒されるんだけれども、岩井俊二はまさに「映像を演出」している。
物語の設定がまた面白い。円の都、イエンタウンと東京を名付け(「東京」の呼び方は一度も出てこない)、そこに「円」目当てで集まってきた移民たちの世界を描く。日本語以外の言語の方が多く使われ、三上など日本の役者も主に広東語などをしゃべる。それが不自然でないのは、役者の力より、演出の力が大きそうだ。
日本人の役者が日本語をしゃべらず、また日本語しかしゃべれない外国人も登場し、観る者を不思議な気分にさせる。日本人とはなんだろう、といやおうもなく考えさせられる。
そこに「円」つまり金がからむ。偽札づくりとその鍵を握る「マイウェイ」のテープが物語を前へと進める。そのことで「円」とはなんだ、ということも問いかけられる。単純に金とはなんだ、じゃないのが面白い。「円」ってなんだ?ホントになんだ?
難を言えば、途中ややだれる。もう少しサービスがあってもいい。せっかく偽札やテープが出てくるんだから、ぐいぐい観客を引っぱっていってくれてもいいと思うんだけど。
しかし美術とカメラがすごいね。どうしたらあんな異世界がつくれるのか。架空都市の設定だからああいう映像にしたのか、そもそも岩井俊二の映像とはあのようなものなのか。おそらく後者だろうが。
金がないから映画的な映画が作れないんじゃなく、センスなんだなあ。「マルタイの女」の予告編を見た時、その映像のきたなさに不愉快ささえ感じ、日本とはこういう風にしか撮れないのだろうかと感じたけど、やっぱちがった。映画的に撮れば撮れるんだよ。
前の日に北野武の二本目の映画を見たから、対照的で面白いと思った。岩井俊二の映画がどんどん筆を動かすのに比べると、北野映画はゆっくりと筆を動かす。カット数を比べたら倍以上違うんじゃないか。どっちも面白くて、いいんだけどね。
北野武の映画はさいきんまで観たことなかった。なんとなく、ミュージシャンとか作家とか、他のジャンルの文化人が映画撮るのって好きじゃなくて。面白くないこと多いし。
で、こないだなんとなく「その男、凶暴につき」を観たらびっくりしちゃった。こんな映画観たことなかったぞーって。明確な作家性がある。しかも明確に映画的なんだね、これが。そいで次に「3-4X10月」観て、これが3本目。順番飛ばしちゃったのは、不良少年の物語ってのが面白そうだったから。
いままでの3本の中ではいちばん好き。どれも好きなんだけど、主人公への自己同一化がいちばんできたからいちばん好きだな。
前に観た2本とちょっとちがうなーって思ったのは、破滅に向かう男の話じゃないこと。もう少し楽観的というか、主人公たちはそんじょそこらにいる連中なところが好きだ。「その男」の刑事も、「3-4」の青年も、その存在を傍で見ている感覚で感情移入はしにくい。「キッズ」の少年は、たぶん男性なら誰でも自分だと思えるんじゃないだろうか。あるいは、主人公じゃなくてもあそこに出て来たどれかの少年にあてはまるんじゃないだろうか。
ぼくが不器用だった頃、10代から20代初めくらいまで、何をしたらいいのかわからなくてもどかしくて、自分が何者なのか何ができるのかわからなくて知りたくて、また世の中とどう折り合っていけばいいのかつかめなくてつかみたくて、そんなころを思い出した。そんな頃、なんて過去形にしてるけど、いまだってわかっていやしない。もう30代なんだからわかってるさとか言ってるやつはわかってないことさえわかってないんだと思う。
こんなこと思い出したり反省したりしてしまうのは、この映画が描いた「青春」にはっきりと共感したからだろう。共感できたのは、あの演出にあると思う。ほんとうの「青春」って決して「夕日に向かってばか野郎」ではないし、だからといってひたすら暗く鬱屈する時間でもない。あの渇いた演出。アップで表情を大写しにして高ぶってものを言わせたりなどせず、あるいは映像をゆがめるなどで鬱屈した心理を強調したりもせず、淡々と進んでいく日常。つまりぼくたちは青春の季節だからとて、やたら高ぶってしゃべりもしないし、映像がゆがむほど鬱屈もしないからだ。ぼくたちの人生は意外に淡々と進んでおり、淡々と進む中にドラマがあるんだ。
淡々と進むけれども、でも冷めた物語ではない。それはこの物語が一見挫折の物語のようでありながら、実は希望にあふれた物語として終わることにあらわれている。この映画は、最初「ネタバレ」のふりをしてはじまる。主人公がボクシングをやめたことは最初に語られ、相棒も職探しをしていることがわかっている。その状態で過去に話がさかのぼって映画ははじまる。ボクシングで勝ち進んだり、相棒がヤクザの世界で出世してゆく様を見ながらも、彼らが結局それぞれ「挫折」してしまったことは最初に知らされているのだ。
でも最後に「もう終わっちゃったんですかね」と問う主人公に相棒は言う、「まだなにもはじまっちゃいねえんだよ」。挫折があったからとて、それを歯を食いしばって乗り越えようなんてしなくていいんだ。まだなにもはじまっちゃいないんだから、はじめればいいんだ。ぼくの中の「キッズ」はそうこのエンディングを受け取った。だって実際、ぼくはまだ、なにもはじまっちゃいないのだから。
青山真治監督のデビュー作。一部でいいと言われているらしいんで観たんだけど、つまんなかった。
北九州が舞台。ぼくは実家は福岡市なんだけど、小学校5、6年だけ北九州の折尾という町にいたから、方言がなつかしかった。そこに漂う空気もさびれゆく地方都市のかんじで、それはうまくフィルムににじみ出ていたと思う。さびれゆく地方社会でもがく若者像を描きたかったようには思えるけれど。
登場人物たちの背景がつかめなくって、彼らの行動のモチベーションがぜんぜんわかんなかった。出所した男がオヤジさんが死んだということを受け入れられなくて「みんなウソつきよる」と嘆きながら立て続けに殺人を犯す。これさえも、もう少しエピソードなり何なりがないと気持ちがつかみきれないんだけど、カンジンの主人公のモチベーションがさっぱりわかんない。父親が死んで殺伐とした気持ちになったにしても、なんで主人公まで殺人を犯すんだ?あんたさっきまで感じいい青年だったじゃないの。その殺人の場面にからむ元イジメられっ子くんも、突然登場して、役割がわからなかったなー。彼は何のために登場したわけ?
昔、学生時代に8mm廻してた頃、学生同士の上映会でこういうのをよく観たような。いやもちろんそれよりは演出にスタイルあるけど。でも「なーんだかジコマンじゃなーい?」という点は似ているよなー。一応400円払って観てんだからさー。なにかこう、もっとコミュニケーションしたがってくれよー。
〜お尻をちゃんとぬぐってほしい〜
惜しい。すごく惜しいです。
とにかく恐い。映画を観てこれほど恐がったのは学生時代に「サイコ」を観て以来じゃないか。例えば「ジュラシック・パーク」も恐いけど、あれは明らかに恐竜がリアルで技術的に恐い。でも「女優霊」の恐さはもっと精神的です。リアルな恐竜に恐がるより、もっと高級な感じがします。映画はこういう風に恐がらせなくっちゃ、というお手本だという気がします。
20数年前に撮影所で起こった事件が、ある映画の撮影時にまたよみがえる。その根本には物語から抜け出した幽霊のようなものがあるらしい、というような話。何が恐いかというと、子供の頃の記憶とか、夢とか、物語とか、フィルムとか、そういったすべての虚構にひそむ何か恐ろしい感じ。それをうまく見事に表現していた。
恐がらせることにとりたててお金をかけていないところがえらいなと思いました。別に恐竜ががおーとか、血がどばーとか、そんなことしなくたって恐いじゃないかと。恐ろしい物語の設定さえあれば、ガラスに人影がぼんやり写るとか、何者かの声が聞こえるとか、死んだはずの少女の顔がよぎるとか、そういったことだけでじゅうぶん恐い。ぞぞぞおーっと鳥肌が立ち、夜中に一人でおしっこに行けなくなります。
しかしこの映画が惜しいのは、お尻をきちんとぬぐってくれない。つまり、謎解きが中途半端なんです。
物語の進行にひきこむのは、謎です。あの人影はなんだろうとか、あの声は誰のだろうとか、そういったものが知りたくて映画に目が脳が食い込む。そしてだんだんわかってくる。だんだんわかってきて、主人公がどうやら幽霊に殺されたところで、唐突に終わるんです映画が。ええーーーーっと叫びました。ちょっと、そこで終わりはないでしょうと。あれでは終わりきれない。提示された謎がきちんと解明されないと、物語は閉じきれない。袋の中身をだだーんとお客に見せたら、最後はきちんと元に戻して袋をもう一度縛らないといけないのに、縛らないままハイと渡された感じ。ウンコしといて、お尻をぬぐわないままズボンをはいてしまったようなもんです。
「サイコ」が恐かったと書きましたが、「サイコ」では最後に延々と精神分析医により、何がベイツ・ホテルで起こったかが語られます。しつこいくらい、「こういうことでした」が語られる。別に説明されなくても恐い思いは出来ますが、説明は無いと困る。それを「女優霊」でもやってほしかった。
途中でヒントはたくさんでてきますし、ヒントだけで「こういうことかな?」と類推くらいは出来ますが、類推を観客にやらせるなと言いたい。それは映画の方できちんとやってほしい。やらないで終わるのは、はっきり言って欠陥商品です。
しかしこの映画、そういう大きな欠陥を持ちながらも、人にお勧めしたい気持ちも残します。それくらい恐かった。映画の恐怖とは本来こうだろうと、そんなたくましさはあります。お尻をぬぐうことさえやってくれれば、この中田秀夫監督には期待しちゃいます。
〜「東京日和」よりぜんぜんいいぞ〜
「東京日和」をロードショーで観てがっかりしちゃったわけだけど、「119」はいいんだよ、って聞いて観たら、ほんとに良かった。
このちがいは、脚本に明確にある。
ある海辺の田舎町の消防署員達。ずーっと火事が起こらない。同じように、彼らの生活にも何にも事件が起こらない。つまらないな。何か面白いことないかな。そこへ東京からすてきな美人がやって来た。一大事だ。事件だ事件だ。
というこの単純な物語構造が、映画にはもってこいだね。「つまらないな。何か面白いことないかな」には誰しもどこかリンクできる共感性がある。ぼくなんか九州にいた頃ってなんとなーくこんなかんじだったかなと思ったし、東京に出てきた学生時代も似たようなもんだった、いや今だって。そういう、若者なら誰でも持つ「日常への退屈感」を、「火事が起こらない街の消防署員」ってとこにうまーく集約している。
そしてそこに「美人到来」という事件が発生する。あとは「さて彼女と街の若者たちはどうなるでしょう」という一点に観客の興味は注がれる。もうこれだけで2時間くらい持つよね。
「東京日和」にはこの、「これだけで持つよね」がなかったんだな。
パロディとして遊びでやっているのか、マジメにオマージュとして取り組んでいるのかはわからないけど、「小津映画」を明らかに意識したカット割りが多かったり、海の上の若大将映画みたいなシーンがあったりとか、日本映画の伝統みたいなものを引き継ごうとしている。「東京日和」もそうなんだけど、画面がとてもとても日本的で美しくて、ステキだった。
しかしこの「失われた日本へのノスタルジー」だけで映画を構成しようとするのはどうなんだろう、という疑念も持った。ちょっと懐古的過ぎやしないかと。北野武が積極的に「現在」に切り込もうとしていることや、日本映画の伝統などほとんど無視して自らのスタイルを作り上げようとしているのに比べると、ひ弱なかんじもした。
随所にあった面白いギャグ。ああいったものを活かして、昔得体の知れない怪しい役者だった頃の竹中の「怪演」にあったアナーキーさ、ハチャメチャさみたいなものをベースにした映画づくりを、竹中直人は目指すべきじゃないかなあ、と、これは「東京日和」の失敗を重ね合わせて思ったこと。
〜ものすごくハイレベルな火曜サスペンス〜
東宝が今年鳴り物入りで自社製作した大作。金かかってる。気合入ってる。でも中身はものすごくよくできた2時間ドラマ。ものすごくよくできてるから損したかんじもないけど、でも2時間ドラマ。
大企業の重役が誘拐されて身代金の受け渡しをテレビ中継せよと要求してくる。さんざん警察をかく乱したあげく、巧妙な手口で身代金を奪う。と、ここまではなかなかいままでの日本映画にないスケールとアイデアでお届けしてくる。
途中で犯人のおぼろげな姿と動機が見えてくる。それは26年前の大企業による汚染訴訟の復讐だった。ってそこでつまんなくなる。なーんだ、犯人、正義の味方なんだ。その後、さらに意外な展開も有り、そこはほんとうに意外だったから良く出来てるなあとは思ったけど。
でも現実社会でエリートたちが怪しい教団に入ってとんでもないテロ事件を起こしたり、14才の少年が不条理な猟奇殺人を犯したりしているのに、フィクションの中の犯人がそんなに正義では情けない気がした。何でもかんでも悪いのは大企業のお偉方で、その反対には明らかな正義があるのなら、ぼくたちは「ロストワールド」を観て満足できる。でもそうじゃないから「もののけ姫」はヒットした。
物語の社会にとっての意義というか存在価値というものを最近よく考える。人々は物語に現実の鏡を見ようとする。だからその鏡が「現在」に必死にくいこもうとしていないと、がっかりするのだと思う。「誘拐」にはその必死さが足りない。足りないとヒットしない。
しかしこのぐらいのレベルを2時間ドラマが持っていれば、ぼくはテレビをもう少し見るかもしれないとも思った。そこにはテレビドラマとは何か、と考える入り口がありそうだけど、それはまた別の機会に。
〜すっごくエネルギッシュな自主映画〜
ずいぶん前から気になってた「鉄男」。カルトなブームを呼んだのはもう何年も前だけど、やっと観た。なんとなく「II」の方がお金もかかってそうな気がしてこっちにしたんだけど。
感想としては、あ〜あ自主映画だな〜、と。よくできてるし、映像新鮮だし、お金もけっこうかかってそうで力入ってるけど、自主映画だな〜。
平凡に生きてた男が実は、カラダが鉄でできた兵器に変身してしまう潜在能力を持っていた、というような物語。ビジュアル的にはサイバーパンク調で、「AKIRA」でブレイクする前の大友克洋を連想した。意識的に金属を画面に入れ込み、おもしろい映像になっている。変身シーンではコマ撮りの映像を巧みに利用したり、ストーリーを運ぶ映像とは別に心象的に炎などの絵を混ぜるのは、面白い。
でもそういう映像がちとしつこい。もっと要所要所で効果的に使えばいいのに、これでもかこれでもかと出てくるので、途中からけっこうそういう映像に飽きた。
あと、アクションシーンの演出がダメだ。これは決定的。面白い映像とは別に、武器と化した主人公の戦いがだいじなはずなんだけど、カット割りが雑だ。何をどう戦っているのかわからなくって、手に汗握るかんじがない。
それと、これも決定的なんだけど、構成がまずい。終盤で主人公と敵役がなぜ武器に変身する肉体になったかが語られる。そのこと自体はいいんだけど、これは二人の戦いの前に説明しとかなきゃ。戦いのシーンでどーも盛り上がらないのが、演出の問題もあるんだけど、戦う必然性がさっぱりわからないので、エモーションが高まらない。ストーリー的には、二人の関係の説明があってやっと面白くなったんだよね。面白くなったなあと思ってたら、もう映画は終わっていたってかんじ。
とにかく、ユニークな映像に酔ってる。観客の気持ちをストーリーの中でどう盛り上げるかを考えていないね。ほーらどお?この映像、面白いでしょ?ってことだけで引っぱっていこうとする姿勢がイヤだ。
でもその映像は、確かに観る価値はあるけどね。
一緒に見てた妻が、終わった後怒っちゃった。「何なの?これ?」って。バカにしちゃダメだよ、普通の主婦を。彼女が素直に面白がってくれる映画を目指せよ。カルト人気で喜ぶなっつうの。
〜時間をテーマにしたSFの傑作〜
これは日本映画MLで、何人かが強力にすすめていたので前々から観たかったもの。でも近所のビデオ屋には置いてない。さいきん出来たTSUTAYAにクルマで行ったら、ありましたありました。TSUTAYAってはじめて行ったんだけど、ちょっとすごい。置いてあるソフトの数がすごい上に、新作以外は7泊8日で300円。よく考えられたシステムだ。さらにすごいのが、マイナーな映画もけっこう借りられていること。「タイムリープ」も2本あって、1本はレンタル中だった。
TSUTAYAの話は置いて、かんじんの「タイムリープ」。皆さんがすすめるだけあって、面白い面白い。
佐藤藍子演じる高校生がある朝起きると、火曜日だった。でも月曜日の記憶がない。日記にはちゃんと月曜日の記述があって「クラスメートの星野君に相談しろ」と自分宛てに書いてある。星野君は科学好きのガリ勉で女性アレルギーのとっつきにくい男の子なんだけど、仕方なく彼に相談する。
まあそんな出だしで、月曜日の記憶がないのはタイトルから「ははーん、時間を飛び越しちゃったんだ」とわかる。でも自分宛のメッセージを日記に残してるところがすでに謎めいていてわくわくさせるんだけど、それは序の口で、猛烈なイキオイで話が展開する。観てると途中でとまどっちゃいそうになるんだけど、観客を置いていかずにちゃーんとわかるように進行する。この親切さはうれしいよ。サービス精神が薄い映画が多いから。
監修が大林宣彦で、世界観としては「時をかける少女」や「同級生」みたいに健全な少年少女たちの物語。そこはちょっとキライ。でもとにかく話がよくできているから、そんなことはどうでもいいや。
この映画、97年公開なんだけど、どうして話題にならなかったのか不思議。多くの観客を満足させる娯楽作品になっているのに。佐藤藍子主演だし。ちゃんと宣伝してメジャー系で公開してたら、ヒットしたと思うんだけどなー。これも日本映画の問題点だ。
〜空気がすでにコメディだ〜
これも、日本映画MLですすめていた人がいたから借りた。そしてこれも、近所のビデオ屋にはなかったけどTSUTAYAにはあった。商店街のビデオ屋もがんばれ。つぶれるぞ。
お金にだけ生きがいを見出して生きる女の子が、富士山の樹海に眠る三億円を手に入れるためにあらゆる努力をするコメディ映画。
面白かった。コメディだから笑えてよかったというより、なにかフィルムに閉じ込められた空気みたいなものが好きだ。ぽよよ〜んとしていて。なんだかぜんぜん説明になってないけど、ほんとにぽよよ〜んとしている。松竹の映画館で「虹をつかむ男」の予告編なんか観ると、空気がねちょねちょしていていやだな〜と思う。いつの間にか、日本のコメディはそういう空気になっちゃってたけど、この映画はそういうねちょねちょと無縁だ。あー、やっぱり説明になってないなあ。
ハナシもとてつもなく可笑しい。例えば、お金を手に入れるための何かの難関がある時、普通は運の良さとか、いい人とめぐりあったりして、わりとやすやすと乗り越えて次に進むのが映画の調子のよさだけれども、この主人公はちがう。難関を乗り越えるための努力を一からするのだ。ものすごいエネルギーと情熱で。そこが馬鹿馬鹿しくて楽しい。そのエネルギーをそのまままっすぐに商売に向ければかんたんに三億円くらい手に入りそうなのだけど、彼女はあくまで自分が見つけた三億円にこだわる。
馬鹿だなマヌケだなと思うけど、人間はだいたい多かれ少なかれそういう馬鹿なことやってるんじゃないか。だいたいぼくだって、ここにこんな文章を書いて何になるって言うのか。馬鹿だなあ。
〜ついに出会わない二人の主人公〜
原作はいま「レディ・ジョーカー」がベストセラーの高村薫。監督は「月はどっちに出ている」で賞を総ナメにした崔洋一。じゃあ面白いんだろうと思ったんだけど。
途中まではなかなか面白い。謎めいた殺人を犯していく青年。それを追う刑事。主人公は二人いる。
青年は精神に病を持つが、病院を抜け出して看護婦と暮らしはじめる。子供の頃の記憶にからんで、学生時代にある事件を起こした団塊の世代の男たちを恐怖させる。
刑事は自分だけを信じ、仲間たちと葛藤しながら、犯人と、犯人が脅しているらしい団塊世代のグループに迫る。
学生時代に何が起こったか、青年の動機は何かがだんだん解き明かされる過程は面白い。また警察の捜査方法を克明に描きながら、警察機構の不合理と闘う刑事の姿を丁寧に描いていて面白い。だが問題なのは、この二人の主人公の二つの物語は実は絡み合わない。何より、この二人はなかなか出会わない。
いや、最後に出会う。しかしその時すでに犯人の青年は死んでいる。だからやはり出会わない。二人の主人公の二つの物語は、だから最後の「点」で接しているだけだ。これではひとつの映画の中で語られる意味がないじゃないか。
「たぶん原作は面白いんだろうね」と見終わった妻は言った。たぶんそうなんだろうね。けど原作が面白いのならそこに甘えてそのまんま映像化しようとせず、ちゃんと映画に組み立て直してくれよ。犯人の青年か。それを追う刑事か。どっちかの話にすれば、なんとかなったんじゃないの?脚本は崔洋一に加えて丸山昇一。あんたたち、何年映画つくってんのさ。