日本映画を変えることは
日本の思想を変えることだ


第一部:「もののけ姫」のヒットにおののく

 

1:記録更新に驚きなさい

「もののけ姫」、「E.T.」の配収記録をぬりかえる!

このニュースをあなたはご存知だったろうか。ここをのぞいているのだから、それくらい知ってた?ではどれくらい驚くべきニュースだったか、わかりますか?日本映画興行史上、最大のニュースだったんですよ。「日本映画興行史上」なんて誰も気にしてはないけど。

「E.T.」を抜いたことに驚く前に、何よりも「南極物語」を抜く映画が現れたことにまず驚かないといけない。

「南極物語」は典型的な<動員映画>です。<前売券映画>とも言うけど、要するに大企業の出資のもとに製作され、出資企業が前売券をさばくことで配収の何割かがあらかじめ計算できる映画のこと。「さばく」際には社員や出入りの下請け企業などに半ば無理矢理売り付けるわけ。だから数字の上では大ヒットでも、劇場をのぞくと閑古鳥だったなんてよくあるらしいです。

この<前売券映画>の問題に切り込むことはここではしませんが、まー情けないシステムであるのは切り込まなくてもわかる。そういう、情けなさに頼らないと大ヒットが生めなかったのが日本映画の状況を如実にあらわしているわけですが、そこにさっそうと登場したのが「もののけ姫」だった。この映画も、きっと出資企業の「前売券さばき」はあったろうけど、それだけで配収100億は行かない。実際ぼくが見た時も普通の席は立ち見で、仕方なく指定席で見たし、そんな状態が何カ月も続いたようだから、正真正銘の大ヒットだったと言えますね。とにかく、「南極物語」を抜いたことには「日本映画がそんなに情けなくもないぞ」という意義がある。まず、このことに、驚きましたか?

「南極物語」を抜いたことに驚いたら、次にはやはり、「E.T.」を抜いたことにも驚かないといけない。

ハリウッド映画には、日本映画は日本国内でさえも興行的に勝てない。絶対に勝てない。ぼくはそう信じていた。だって例えば女性をデートに誘う口実に何か日本映画の新作を使おうとしても使えないじゃないですか。「えー!日本映画ってクラーい」とか言われそう。でもハリウッド映画なら使える。十分デートの口実にできるばかりか、映画で盛り上がれば、その後あんなことやそんなことまでできそうです。しかし邦画だと、そんな企みがとば口で木っ端みじんに打ち砕かれます。日本映画はとくに映画好きじゃない人は観に来ない。それが現実であり、常識だと思っていた。

ところが「もののけ姫」は、そんな現実や常識をくつがえしてくれたんです。とくに映画好きじゃない人々がたくさん、山ほど、洪水のように押し寄せて、映画館からこぼれるほどだった。そんなことがありえたでしょうか。ベルリンの壁が壊されたり、ソ連が崩壊した時も、ありえないと思ってたことが起こってびっくりしましたが、それに引けを取らないくらい驚くべきことです。

いったいこれはどういうことなのか。「宮崎アニメだから」と言われればそれまでですが、それだけでは済まないというか、片付かない何かを感じる。と、ぼくはすぐに大袈裟に物事をとらえがちなんですが、でもやはり、ここには「日本映画に起ころうとしている何か」がひそんでいると思うなあ。ではそれは、何だろう。

とか考えると、ちょっとドキドキしてくるんですが、その答を模索するのは、またいずれ。

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2:ぼくたちは新しい物語に飢えている

さて、それではいよいよ「日本映画に起ころうとしている何か」について考えを進めましょう。

ぼくはこの「もののけ姫」が大ヒットしたことがフシギでフシギで仕方なかった。動員映画の「南極物語」を、そしてあの「E.T.」をも抜き去った原因が知りたかった。そこで、いま参加している邦画メーリングリストで皆さんに質問してみたんですね。「もののけ姫」は何故ヒットしたかについて。

その結果をまとめたぼくの文章を、ここをクリックすれば読めるようにしておきますが、まあ短く言えば十数年かけて絶頂を迎えた宮崎アニメのブランド力に、様々の要因と偶然が重なったのだということになります。

ここで受けた重要な指摘として宮崎ブランドの醸成にビデオが深く関与している、というのがあったんですが、それについてはまた別の項目で考えますね。

さてそうやって邦画MLのみんなの意見をまとめてみると結局は「宮崎アニメだから」ということになっちゃって、やっぱりそういうことだよねと納得はするものの、それだけかなあ、という気分も残りました。宮崎アニメだから。それだけであの記録になるんだろうかと。何かもっとダイナミックな要因が隠されているんじゃないか、でもそれが何なのか自分では明確にできずにもやもやとしていました。そうしたら、関口さんという方がもうひとつ貴重な考察を投稿してきた。その重要な部分を引用してみましょう。

> 不況で消費が冷え込んでいるこの時期に、
> あれだけのひとが映画館に足を運んだというのは、たしかに驚くべきことですよね。
> 内容をみていないので、これ以上わたしは何もいえないのですが、
> あの例の「生きろ」というキャッチフレーズですか。
> そしてポスターではかわいい顔の女の子(宮崎アニメかわいい女の子典型顔)
> が口のまわりに血をつけて立っている。
> あれもセンセーショナルでしたよね。
> もう、クラリス顔の女の子も、頭にリボンつけて
> 甘えてるだけではだめなんだというような・・・

> 殺伐とした社会現象(酒鬼薔薇、通り魔等)や
> 混沌とした世の中(大企業の不正など)のムードがこの夏、社会全体を覆い、
> アニメという一種のパラダイスと、「生きる」というテーマの物語に
> 多くの人々が感心を寄せたのではないかとも思いました。

おお、そうか、とぼくは思いましたが、あなたはどうでしょう。(上の投稿にぼくが反応してすぐさま書いた投稿をここへ置いておきます。コーフン気味ですが、コーフンしている分その時ぼくの感じたことがダイレクトに出ている)

正解は「世の中の空気」だったんですね。1997年の日本のこのただならぬ状況。金融機関がビシバシつぶれたり、14歳の少年が猟奇的殺人を犯してしまう虚しく切なく悲しい空気。そんな中であの映画に並んじゃった人たちは何か救いを求めるような、と言うと大袈裟ですが、大切な物語を見せてくれそうだくらいの期待を持っていたんじゃないでしょうか。

しかしこれは今年だけの話でもないような気がする。今年に限ってのことでなく、バブルがはじけて以来、もこもこと巻き起こってきた時代のムードみたいなものが、ようやく明確に顕在化したのがたまたま1997年だったと。そういうことなんじゃないでしょうか。

映画というのは、ただ純粋に娯楽として面白ければいい、というものではなく、その社会その時代にとってその物語が語られることの意義、みたいなものが問われる娯楽なんじゃないでしょうか。「もののけ姫」は1997年の日本にとって意義深い物語を語ろうとしていることが、ありありと感じられる映画だった。しかもそれが宮崎ブランドだった。そのことがあの大記録に繋がったと言えるのかも。

もっとも、本当に「もののけ姫」が意義深い映画だったのだろうか、という疑問は残ります。ただ、この映画に関しては意義深そうに見える準備があらかじめなされていた。(製作者たちがどれくらい意図的だったかは別ですが)宮崎アニメじゃないと意義深そうに見えなかったろうし、自然対人間の物語は底が深そうだし、現代ではなく過去の物語だというのも奥深そうです。それに重たそうだけど難しいばかりでもなさそうだという、きちんと娯楽にもなっている気配があるというのも、何しろアニメだから臭うわけで、そのことも重要です。

ぼくはさっき「日本映画はデートに使えない」みたいなこと書きましたけど、しかし今の日本の状況はハリウッド映画をデートに使うのがさほどカッコよくもない状況になっているんじゃないかなあ。「バットマン&ロビン」に女性を誘ったとして、そこそこ映画楽しんで、その後食事しながら「いやー、ほーんと面白かったねー」としか言えない男だと、もはやいまの女性には「中身なーい」とさげすまれちゃうのかも。むしろ「もののけ姫」を観た後に「人間は自然と向かいあいながら<生きる>しかないのだね」とか、意味深に言った方がモテそうだ。あー、このきびしい世の中、この人は深く物事を考えてるんだわん、頼れるわん、とか誤解してくれそう。

つまり「もののけ姫」のヒットは、ハリウッド流のどかーん、ずがーん、ばごーん、みたいなやたらハデで物語としては定型的、というような映画の時代の終焉を意味しているんじゃないか。観客は「そういうのもいいけど、小難しいくらいの方がいいよ」という選択をしたんじゃないか。そういう時代になっているんじゃないか。「E.T.」さえ抜いた事実には、それが象徴的に集約されていると思うのです。今のハリウッド流はもういいよ、というメッセージになっている。

ぼくは正直言って「もののけ姫」は今までの宮崎アニメに比べるとつまらない方だと思うんですが、そういう作品の中身とは別に、この映画は日本映画にとってのターニングポイントとして後々まで語られる映画になる気がします。ターニングポイントよりさらに大げさに言えば、新たな出発点。これからの日本映画の進むべき方向を指し示すパラダイム的な役割というか。映画をつくる方にも見る方にも、何か啓示めいたものを与えている気がします。その啓示の中身は、「面白ければ面白い映画ってわけじゃないんだ」というようなことになりましょうか。

この「面白ければ面白い映画ってわけじゃないんだ」っていうことについては、もう少しつっこんで考えたい気がしますが、それはまた次の章で。

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3:日本映画はどんな物語を提示すべきか

前の章を書いてから、どんどん時間が経ち、ついには年が明けてしまいました。あけましておめでとう。

続きを書かなかったのは、書けなかったからです。書けなかったのは、忙しかったからですが、忙しかったのを言い訳にしているフシもある。どう書き進めればいいかいまひとつわからなかったからですね、ホンネは。今こうして書きながらもまだ文脈は見えてないんですが、書いているうちにきっと何が書きたいか自分でわかってくるだろうということで、とりあえず書き進めてみますね。

えっと、なんの話かっていうと、「面白ければ面白い映画ってわけじゃないんだ」ってことでしたっけ。

そう言えば、今日昼ご飯を食べながら「笑っていいとも」を見ていたら、何かの雑誌の「好きな男の条件」みたいなデータで、一位が「頼もしい人」でした。二位は「優しい人」。そして、「面白い人」はずっと下でたしか地味に5位くらいだったかな。これはちょっと、驚いた。

だってぼくの20代の頃、つまりそれはバブル真っ盛りくらいの時代なんですが、こういうデータでは「面白い人」が圧倒的にダントツで群を抜いてトップだったような。少なくとも「優しい人」と常にトップの座を争ってた。「優しい人」は女性が男性に求める普遍的な要素だろうから、「面白い人」がこの10年くらいで「頼もしい人」にその座を奪われちゃったわけです。

いったい何の話をしてるんだ、とイラついてる人は、勘が悪いなあ。話の先は見えたね、とほくそ笑んでる人、あなたは勘がいい。

つまり、去年の夏の映画でいうと、「ロストワールド」や「バットマン&ロビン」は「面白い人」なわけですよ。そして「もののけ姫」は「頼もしい人」でしょう。たぶん10年前のロードショーがまったく同じラインナップだったら、面白い人つまり「ロストワールド」の圧勝で、頼もしい人「もののけ姫」は興業記録を塗り替えられずに地団駄を踏んでいたはず。でも1997年はまったく逆の結果でした。

世の中に何の問題もなければ、シニカルに言うと能天気な時代であれば、面白い人がモテて、面白いだけの映画に観客が来る。でも今の日本は大問題だ。面白いだけの人はモテない。映画だって、おまえそんな面白いだけじゃ困るんだよ、と言われちゃうわけですね。おれはせっかく1800円払って2時間も割いて観てやってんだからよお、大事なことの一つや二つ教えてくれなきゃってもんだろうよ、とからまれちゃいます。

ぼく個人もねえ、80年代は「映画は物語じゃねえだろ」とか言って、わりと美学的に観たりエンタテインメント性で観たりしていた。映画のテーマとかは目をそむけていたというか、あまり評価の対象にしていなかった。そういう見方がカッコいいと思ってたんですね。

でもいまはちがう。180度くらいちがう。けっこう映画にヘビーなもんを求めてると言うか、何がしかのメッセージを見出そうとしています。

そっか、だから日本映画が語るべき物語は、頼もしい人として語る物語であればいいんだね。と結論づけるのは理論上はかんたんですが、実践上はかなり難しい。

ぼくは映画の感想文コーナーの方で「CURE」「女優霊」を物語をきちんと終わらせていないとモンク垂れてますが、気がついてみると、志のある日本映画はみんなそうですね。正月に福岡の実家に帰った時、「もののけ姫」を観たという小六の甥っ子に感想を聞くと「最後がイマイチやね」と生意気にもスルドイこと言ってましたが、ほんとにそうです。去年もっとも頼もしい人だった「もののけ姫」でさえ最後ちゃんと終われているのかというとなんだか怪しい。あれについて邦画MLである方が映画版の「エヴァンゲリオン」のラストとの類似性を指摘してたんですが、ホントに似ています。うにゅーとした流体物が地表をおおって世界が再生しておしまい、というのは実際そっくりですよ。あのうにゅーで映画的クライマックスだけつくって盛り上げたふりはしたけど、なにか強引にごまかされた感がある。強引にごまかしてハッピーに再生して終わる「もののけ姫」より「気持ち悪い」で終わる「エヴァ」の方がナンボか誠実かもしれない。

(話はそれますが、「もののけ姫」を振り返る時「生きろ」のキャッチフレーズとともに語られますが、映画自体は実は「生きろ」っていう話じゃないですよね。けっこう何も解決してない無責任な話です。でも映画を見終わった後、「生きろ」を思い返すとそういう話だったような気がしてくる。メディアもそのワードを素材にあの映画を語る。いやー、実によくできたコピーですわ)

でも考えたら終われないですよ、今の日本映画は。それは今の日本男性がそうそう頼もしい人をやってられないのとおんなじ。

物語を終わらせるというのは、作る方が意図してるかいないかに関わらず、何がしかの理念あるいはモラルを提示することになるわけですから。今の日本は何が理念なんだかモラルなんだか誰も胸を張って言えないのだから、終わりようがないのでしょう。

ハリウッド映画は終わりやすいですね。とくにいまは、経済的に順風満帆、「ジャパン・アズ・ナンバー1」の驚異も杞憂だとわかってもう恐いモン無しです。その上、キリスト教社会の自由主義社会だから、あまりモラルが根底から揺らいだりしない。「CURE」を観てひとつだけ気づいたのは「セブン」って観た時はアメリカ映画にない衝撃のラストとか思ってたのが、けっこう甘いエンディングだったんだなってこと。見てない人にはネタバレしちゃいますが、最後に自分の子どもを身ごもった妻の首を見たら怒り狂って、刑事のクセに丸腰の犯人を殺しちゃう。それがまさに犯人の恐るべきねらいだったわけですが、「CURE」がつついた人間の本性からすると、実に甘い。ぼくも子どもがいるから、観た時は「うんうん、おれもきっとそうする。しょうがないよお前」と同情したもんですが、果たしてそれは真理なのかと。でもキリスト教社会のモラルで言うと、あれでしっかり物語は終われるわけですね。許されはしないが、許す!みたいな。

「CURE」はそういう、人間なら誰だってそうさ、みたいなとこまで疑っていてそこはえらいと思います。そして「CURE」は極端だけど、日本映画は今、いろんなことを疑ってかかることで、新しい理念を探そうとしているんじゃないか。探すそのイキゴミがいま新しい作品群を産みだし、またしかし完成度として物足りなさを感じるのは物語が終われない、つまり確信できる理念をつかみきれていないことの証なのかもしれない。だって橋本首相も管直人も、山一証券も第一勧銀も、ぼくもあなたも、確信できる理念なんて持ってないじゃありませんか。あるいはいま「これこそ次の時代の理念だ」なんて確信持って主張してるやつって、なんかウソくさいじゃないですか。

そうやってみていくと、「CURE」と「女優霊」に限らず、去年ぼくが観た日本映画の多くに対し、面白さと物足りなさを感じるのは無理もない。「バウンスkoGALS」「東京日和」「萌の朱雀」去年一番好きだった「ポストマンブルース」そしてビデオで観た「スワロウテイル」「Helpless」「女優霊」などなどなど、題材や展開がすごく新鮮なのになーんか完成度としては問題を感じてしまったんですが、それはとーぜんなのかもしれない。そして逆に完成度としては高かった「誘拐」や「ラヂオの時間」なんかは急にどうでもいいモノの気がしてきます。悪いけど。(三谷なんかモロにハリウッド映画大好きってかんじですもんね)

うーん、なんだか言いたいことがわかってきたぞ。日本映画は今、もがいてるんですね。産みの苦しみ。それはまさに日本社会がもがいているのと呼応している。

しかしそーすると、日本社会が暗中模索の今は、日本映画の物語としての完成度がイマイチなのはしょうがないんでしょうか。いや、逆だと思うんですよね。世の中が手探りだからこそ、物語の側は現実への光明にならなくちゃ。きっとこっちに新しいものがあると思うんだよね、と頼もしく指し示してあげなくちゃ。それが物語の存在意義ってもんでしょう。

とこう考えを進めてきて、いまぼくはやっと北野武の映画の何に魅かれてるかがわかってきたんですが、あすこにはひとつの理念めいたものがあるんですね。さっきあげた、新鮮だけどイマイチな作品群とちがって、北野映画には曖昧だけど強靱なモラルがある。しかも日本人が心のどこかに持ち続けてるはずの精神性に裏打ちされたものが。なんだろう、「おれはムカついたら殴るぜ、ただし命かけて」みたいな。暴力がやたら出てきますが、あれ決して、無闇に凶暴なんじゃないですね。意外に理性がある、ちゃんと。そして死がやたら出てくるけど、それが悲惨じゃない。死は死じゃないか、みたいな。けっこう「葉隠」の哲学に近いと思うんだけど、うまく言えない。でもそうなのっ!ぜったいそうなのっ!

じゃあ北野武以外には物語がきちんと語れないのか。そんなこともないはずですね。北野武の理念はひとつあるとして、ちがうのもあるでしょう。

ぼくはあまり小説は強くないんですが、でも最近新しい作家に興味があって少し読んでます。そうすると、小説はいま、トライして成功してますね。映画よりもっと物語が終わりきれてますよ。それに題材も新鮮ですよ。うじうじした私小説みたいなんじゃなく、ちゃんとエンタテインメントして、新しいテーマに切り込んで、物語のオトシマエもきちんとつけている。

北野武にできて、多くの小説家にできるんだから、やはり映画にもがんばってほしいですね。「CURE」はけなして「ポストマンブルース」はぼくはほめてるんですけど、でも「あのラストでいいのかよ」という大きいくくりでは一緒かもしれない。日本映画よ、カメラを回しはじめる前に、もうひとがんばりしてくれよ。紙の上で、物語の最後の方と取っ組み合って組み伏せて、きちんと終わりを見据えてから、撮影に入ってくれよ。と、ぼくはお願いするのでありました。

<次回予告>

いかがでしたか、第一部「もののけ姫」のヒットにおののく。ぼく自身も思わぬ展開で、物語についての話になりました。「世の中と物語」についてはもっと語るべきことがある気はするんですが、それはまた次の機会に。

さて、第二部は、もう少し具体的に日本映画の問題点に切り込みます。広告屋として横目で見た経験から語る、製作システムへの異論反論オブジェクションです。乞うご期待。

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