98/4/26「GONIN」

〜とてもゴージャスなえぐい映画〜

昔から漫画の原作をやっていて、最近監督業に乗りだした石井隆作品。邦画MLでほめてた人が多かったので、観てみた。

死に方についての映画。

資金が行き詰まったバブル青年実業家(佐藤浩市)が、ナイフ少年(本木雅弘)、元刑事(根津甚八)、パンチドランカー(椎名桔平)、リストラサラリーマン(竹中直人)に声をかけ、金融で暴利をむさぼるやくざの金を奪う計画を立てる。という出だしでぼくはドキドキした。なかなか邦画にはないエキサイティングな話だなあと。それになにより、五人のキャラクターと役者がいい。本当の意味で豪華な役者が揃ってる。ちゃんとそれぞれの持ち味が生きているのがシビレる。

で、このあと、じっくり計画を練り、奪う場面がクライマックスかな、と思うと、あっさりそれがはじまる。椎名桔平なんか、かんたんに殺されてしまう。上の組織から送られてきた殺し屋が、ビートたけし。あ、じゃあ、復讐の映画なのかな、五人とたけしの戦いがメインなのかなと思うと、あとは次々殺されていく。だんだん、これは死に方についての映画なんだなとわかってくる。わかってはきたけど、ちょっとえぐいね。まあ、奪ったり復讐したりのカタルシスを望むのは、ハリウッドに毒されてるからかもしれんが。

さいこーにえぐいのが、竹中直人の死に方。というか、本人が死ぬ前に、女房子供が殺されてるの。根津甚八も女房子供を殺されて、自分は逃げちゃう。最後は死ぬけど。所帯持ちとしては、これはつらい。つらすぎ。映画の中で罪のない子供を殺しちゃいけない、とヒチコックも言ってなかったっけ?ビデオで観たからまだしも、映画館で見てたら、もんのすごく気分悪かったと思う。竹中直人一人で死ねば、リストラされてウジウジしてるより、大金やくざから奪って殺されたほうがいい人生じゃん、って言えるんだけど。おめえがバカなことするから、奥さんも子供も死んじゃったじゃねえかよ、と肯定のしようがなくなる。

そのつらさをのぞけば、けっこうおもしろいんだけどなあ。

この映画、いまは亡き(?)奥山和由プロデュースなんだけど、彼はやはり、興行的な意味では上手じゃないね。松竹系で大々的にロードショーするには、上のつらさは致命的だと思う。

宣伝も失敗していて、ぼくはこの映画、やたら叫びまくる血圧の高い時代劇だと公開時は思っていた。テレビの予告やポスターのビジュアルがそういうイメージだったからさあ。もう少しうまく宣伝すれば、もう少し客も呼べたんじゃない?キャストは豪華なんだから。

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98/5/25「エコエコアザラク」

〜残酷と恐怖はちがうでしょ。サイテー!〜

ちょっとお仕事上で興味を持って観た。監督は佐藤嗣磨子(字がちがうかもしれない)。誰かがほめてた気がしたんだけどなー。

原作は昔、ぼくが高校生の頃、少年チャンピオンで連載されてた漫画。絵も下手だったしストーリーもイマイチだったけど、黒魔術を操る女子高生が主人公で、オリジナリティはあった。けっこう毎号読んでたな。なんとなくただよう色気もあったし。(でも決していまの少年漫画みたいにむやみに裸が出てくる類いの色気ではないよ。あくまでただよう色気)

ある高校に転校してきた黒井ミサという謎の少女。彼女は実は黒魔術を操る魔女。その高校に災いのにおいを感じてやって来た。ある日、追試で残された少年少女。学校に閉じ込められて次々と・・・てな話。

二つの意味で、恐怖映画として失敗。

ひとつは、魔術だからってんでかなり唐突に登場人物が殺されてしまう。あまりにも脈絡なく死ぬもんで、サスペンスが生じない。普通なら、歩いてる少女。物陰から伸びるナイフを持つ手。あ、あぶない、殺されちゃう!てなドキドキが観客を襲うわけだけど、そういうのがない。人間を越える力によって殺されるからって、何が起こったかよくわからないうちに数名が死んだりする。これはあまり恐くないね。

ふたつめは、殺されるまでが恐くないくせに、殺されるときはやたら残酷。例えば、首を切り取られる場合、その場面は直接的に画面には映されないで、ああ、いま首を切り取られたな、と思わせるほうがじつは恐い。でもこの映画、それをそのまんま見せちゃうの。さっきまで生きていた女子高生の、首のない死体を見せてくれちゃう。グロース!悪趣味だよ。それは残酷なだけで、恐くはない。気持ち悪さ、不快さだけが残って、恐怖にはならない。残酷と恐怖をとりちがえてる。しかもそれが女性監督だってのも信じられない。偏見かもしれないけど。でも観客への、あるいは登場するティーンエイジャー(架空の人物とは言えね)へのやさしさがない。思いやりがないね。

オヤジ雑誌がよく「最近のテレビや映画は残酷で、それが少年犯罪の一因」みたいなこと言うけど、ぼくはそれに真っ向から反対する。でも、この映画に関しては反論しない。ぼくもこういう映画は子供に見せたくないもん。何か悪い影響がありそうだもん。「リング・らせん」なら見せるけどね。恐怖映画にも、守るべき品ってもんがあるのさ、実は。

というわけで、この映画はかなりキライ。しかも「CURE」だの「SADA」だのをけなしたのとはまったくちがう意味というか、もっと次元の低いレベルでキライ。ダメだよ、サイテー。

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98/6/5「岸和田少年愚連隊」

〜ナイナイはテレビにゃもったいない〜

誰かがほめてた記憶があって、何の気なしに観たらすっごくよかった。

内容はありがちと言うか、1975年の大阪岸和田市を舞台にしたケンカに明け暮れる少年たちの青春グラフィティ。誰かの個人的な体験を物語にしたんじゃないの?

まず主演のナインティナインがすっごくいい。テレビのバラエティ番組で観るよりずっと面白かったしカッコよかったし、魅力的だった。矢部がリーダー格の少年で、ギャグ飛ばしながら殴り、ギャグ飛ばしながら殴られる。その横でちょろちょろするのが岡村で、チビで小心者のクセに負けん気だけは強い。二人を中心に数名のグループがどんなに相手が大人数だろうと、ケンカを挑む。でもぜったいにユーモアは忘れない。誇りは高い。やられたら必ずやり返す。なんかこう、日活アクションを彷彿とさせるトーン&マナーかな。

そうした役者たち、軽妙なセリフがちりばめられたシナリオを、テンポよく演出している。最初に床屋で数名で会話するシーンからしていっきに引き込まれた。少年時代を描く際にありがちなウェットさを排して、渇いたタッチでユーモアたっぷりに描いている。

役者の役作りが、シナリオが、演出が、「よくある青春物語」を「新しいタッチの映画」にまで高めている。そうしたコンセプトは、ひょっとしたら陰うつないまの青春へのメッセージなのかもしれない。だってこの世界の少年たちは暴力は振るっても、殺人は犯さない。バットは武器にしても、ナイフは持たない。

とにかくナイナイがこんなに役者として魅力的だとは意外だった。彼ら主演で、もっと映画をつくればいいのに。昨日観たテレビのバラエティなんて、ちっとも面白くなかったよ。もったいないなあ。

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98/6/19「Love Letter」

〜恥ずかしさを乗り越えろ〜

岩井俊二の劇場映画第一作。

前に「スワロウテイル」と「GOHST SOUP」をビデオで観ていて、岩井俊二の映画としては三本目。この人、ストーリーテラーとしても映像作家としてもすんごく才能があると思う。でも三本観て、感心しながらもファンにはなれないことに気づいた。

感心するのは「才能」そして「根性」。日本映画ではなぜか監督自ら脚本も書く場合が多くって、それは脚本の段階でうまくいってない場合が多い。でも「Love Letter」の物語はよくできている。これは多大なる才能と根性がないとできない。それにカット割が細かい。そして何と言っても映像が美しい。自分の中に素晴らしい映像を描く「才能」と、それにこだわってフィルムに定着させる「根性」が普通の監督よりあふれていると思う。そんじょそこらにいる人間じゃない。

「Love Letter」はある意味、完成度が「スワロウテイル」より高い。あっちは題材が豊富すぎて詰め込んじゃってやや物語の焦点がしぼりきれていなかった気がするけど、こっちは二人の女性を軸に完成度の高い物語になっている。

この映画では神戸に住む渡辺博子と、彼女の死んだ恋人と同姓同名の小樽に住む藤井樹という二人の主人公がいる。その二人はなんと、中山美穂が二役で演じている。つまり顔がそっくりだという設定。二人は出会うことはないが、ある偶然から手紙をやり取りする。死んだ恋人は少年時代を小樽で過ごしており、女性の藤井樹とは同じクラスだった。中学時代、男の藤井樹は女の藤井樹に恋心を抱いていたらしいことがだんだんわかる。彼が博子を愛したのは、中学時代の初恋の人に顔が似ていたからか?といった物語。

なんだか文章にするとややこしい話だが、映画ではこういった設定がうまく徐々に語られていき、混乱はしない。そして、博子と二人の樹の不思議な関係が面白く語り進められていく。なにしろ、博子と女の樹は同じ顔。二人の樹は同じ名前。三人の存在が観る者の頭の中で複雑に交錯するのだ。そして神戸、小樽、樹が遭難した山と、三つの場所がすべて雪でつながり、つまりは三人ははっきりとつながっていたのだ。そしてまた、博子が恋人の死を乗り越えるように、女の樹は父の死を乗り越えて生きていく。

という、とてもよくできた美しい物語なんだけど、なんつーか美しすぎてノレなかった。絵空事みたいでね。このノレない部分がファンにはなれない理由だと思うんだけど、この人ってどっか恥ずかしい。この映画でも雪の中で「お元気ですかー」と叫ぶクライマックスは、まいいかと許しながらも恥ずかしかった。恥ずかしさを象徴化しているのが、最初と最後のクレジットにローマ字は出てくるけど日本語はまったく出てこないとこ。「GHOST SOUP」でも、前半のオシャレに撮ろう撮ろうとしてる感じがみょーに恥ずかしかった。なんだろう。田舎者のコンプレックスを裏返して見せられてるみたいな。いやー、そんなに恥ずかしがらなくてもいいのにと。東京出身だろうと、ニューヨークに住んでようと、ダサいやつはダサいんだしさあ気にすんなよ、と話しかけてあげたくなる。

そういうとこ乗り越えたら、もっとすごい映画を作ってくれると思うんだけどなー。そういう期待はできる数少ない映画作家だと思うよ。

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98/6/22「演歌の花道」

〜もっと面白くできただろうに〜

シャ乱Qをフィーチャーしたコメディで、去年の夏「キャッツアイ」と二本立てで公開されたフジテレビ映画。

関西でロックバンドをやっていた若者。スカウトされて上京してみたら、演歌専門の芸能プロだった。演歌界の大御所作曲家に弟子入りし、その一番弟子の演歌歌手の付き人となるが破門となり、ところが偶然からヒットを飛ばして・・・といった物語。

まー深味もへったくれもないコメディだが、邦画としては珍しく人情に流れずに徹底した喜劇にしている。ほろりと来る場面もあり、なーんてところはなくて、その点はいい。主人公のつんくもがんばってるが、何と言っても敵役の陣内孝則がバツグンにいい味出してる。というか、はっきり笑えるのは陣内の場面ばかりだった。

監督の滝田洋次郎はコメディがうまい、ということになってるらしいが、正直言ってテンポがだるかった。カットのつなぎ方や間のとり方にキレ味がないというか。ひとつギャグがあって、次に行く前にちょっと引っぱりすぎ。早く進めよ、とイラついたほど。

キャラクターももう少し練ればよかったのに。例えば演歌の大御所作曲家を平幹二郎が演じていてその時点で笑えそうなのにもうひとつ笑えない。もたいまさこ、松尾貴史、尾藤イサヲなど芸達者な面々が脇を固めているのだから、いろいろやりようはあったんじゃないのか。ホント、陣内だけだった。

それと、せっかく音楽を題材にしたコメディなんだからもっとふんだんに音楽を使えばいいのに。シャ乱Qのヒット曲を演歌調で聴かせるのは面白いんだけど、それだけ。あとはBGMだった。

美術はよかった。コメディの絵って美術がチープだと貧乏臭くて笑うに笑えなくなるけど、馬鹿馬鹿しくもゴージャスなセットや衣装が映画に華を与えていた。

邦画の場合、企画が立ち上がってから公開まで半年が当たり前になっていて、それにしてはまあまあ面白かったと思うけど、もっとシナリオを練って音楽の遊びを増やせば何倍も面白くなったはずだ。ついでに監督はサブにやらせれば、テンポのいいコメディになったと思うなあ。さらについでに言うと、こういうの、ウルフルズでやったらいいんじゃないかなあ。

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98/8/6「岸和田少年愚連隊 血煙純情篇」

〜プログラムピクチャーの匂い〜

吉本興業製作の「岸和田少年愚連隊」の続編。監督は井筒和幸から三池崇史へ、主演はナイナイから千原兄弟(って誰だ?)にバトンタッチしている。

大ヒットを飛ばしたわけでもないのに続編。まあこれは映画のセールスより吉本興業の若手売り込み作の一環だととらえるべきだろう。

前作が好きなら、その続編として同じだけどちがう面白さがあり、楽しめるだろう。ぼくがそうだったように。もっともぼくには前作の鮮烈さと軽妙さの方がインパクトは高かったけど。でも、どっちがどうと言うより、うまくシリーズ化させた製作者たちの作品のコントロールぶりは素晴らしいと思う。この二作を見ていくと、監督や役者たちの頑張りを大きな視点でバックアップしながら作品を続けていくプロデュース力を背景に感じる。昔の映画会社がゴジラや座頭市などをシリーズ化していったような、プログラムピクチャーの匂いがする。そこには、映画を芸術にしようなどという肩ひじ張った姿勢でなく、誰もが楽しめる作品を客にコンスタントに届けていこうというしっかりした意志があるのだろう。海外で賞をとる才気ばしった監督より、プロデューサーたちのそういった誠実なビジネス感覚こそが、日本映画界には必要なんじゃないか。

「アンドロメディア」とちがい、この映画では三池監督の個性が物語としっくり融合している気がする。「三池監督の個性」と言えるほどぼくはこの人の他の作品はしらないんだけど、いくつかファンタジックな映像には監督の強烈な意欲が感じられ、それは前作とはちがう趣を物語にもたらしていたと思うのだ。ストーリーが前作のケンカ中心から恋愛模様に主軸を移しており、井筒監督のスピーディでコミカルな演出から、ファンタジックな場面をちりばめた演出になっている。これは三池監督が前作とのちがう持ち味を与えていったことにあるが、そうしたことまで見越して製作側はこの監督を起用しているのだろう。

この映画を見て「プログラムピクチャーの匂い」と書いたのは、学生時代に文芸座に通って日活アクションを一生懸命見ていたときに感じた鈴木清順映画を思い出したからだ。日活アクションには一貫したトーン&マナーがあるんだけど、清順はそれをふまえながらもそこからまた逸脱もしていた。日活アクションのルールみたいなものをきちんとこなしながら、さらにそこに清順美学をちりばめ、個性を発揮していた。それと似たものを、とくに「分度器」のファンタジーシーンに感じたのだ。別に「三池監督には清順の影響を感じる」なんていう大袈裟なことを言いたいんじゃないのよ。

ぼくはこの吉本興業の映画プロデュースの姿勢には期待する。東宝や東映などの映画会社、そしてフジテレビなど既存のプロデュース集団が持ちえなかったいい意味でのビジネスマインドと作品をコントロールする力量に、これからの日本映画の一翼を担ってくれそうな可能性を強く感じるのだ。

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98/8/11「12人の優しい日本人」

〜「ラヂオの時間」の前哨戦〜

'92年アルゴプロジェクト製作。監督は中原俊(この人はぼくの大学の学科の先輩にあたるらしい)。脚本は三谷幸喜と東京サンシャインボーイズのクレジットになっていて、ようするにこの劇団の舞台の映画化。アルゴプロジェクトが何かについては『日本映画は、いま』(佐野眞一著・TBSブリタニカ出版)に詳しく書かれている。90年代初期に日本映画界に新たな息吹を吹き込み、いくつかの佳作を製作したのち志半ばにして解体したプロデューサー集団だ。

で、この映画、面白い。ムチャクチャ面白い。

日本に陪審員制度が導入されていて、という設定は何の説明もなく、いきなりある裁判の後からはじまる。12人の陪審員が、ひとつの会議室で有罪か無罪かについて議論する。それだけの映画。カメラはいくつかのシーンを除いて、会議室から出ない。だからと言って、無茶な長回しなんかせず、キレのいいカット割でぽんぽんと映画は進む。部屋からでないのに、ちっともあきないどころか、ぐいぐい映画に引き込まれる。あれ?何かに似てるぞ、と思ったら、これは三谷幸喜が脚本の上に初監督にトライした「ラヂオの時間」に似てるのだった。そういう意味で「ラヂオの時間」は、この映画の続編だったんだね。

「ラヂオの時間」を見た時も思ったんだけど、この映画を観てもつくづく感じるのは、映画ってまず脚本だなあってこと。いい脚本さえあればいい映画ができるわけでもないけど、いい映画つくるならまず、いい脚本を用意しろよ、ってことだね。(もちろん例外は常にあるわけだけど)いい脚本があれば、部屋ひとつだって、2時間たっぷり見せるだけの映画空間になるわけだ。

12人のキャラクターも、それらが繰り広げる葛藤も、実によくできている。そしてその裏には、人間の浅はかさや美しさやかわいらしさだの、民主主義のくだらなさや素晴らしさだの、いろんなこと感じさせてくれる。例えばこれを二人の人間で観たら、その感想を一晩中語りあえそうなほどだ。映画からにじみ出てくる事柄のすそ野の広さという観点では、「ラヂオの時間」以上のものがある。何より物語の進め方から苦い結末まで、完成度はすごく高い。

小学生からおばあちゃんまで、誰でも楽しめそうなこの映画。でも興行収入はたったの3440万円だったそうな。あーもったいない。そこにはアルゴプロジェクトだけでなく、日本映画界全体の悲しい側面がにじみ出ている。いい映画つくっても、客は来ない。悲しい産業だなあ。

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98/8/14「勝手にしやがれ!英雄計画」

〜へんてこだけど、キモチいい〜

「CURE」の黒沢清監督のほとんどビデオ発売で元とるために製作されたような低予算映画。シリーズになっていて、これは後の方のものらしいんだけど、あるMLで話題になっていたんで、これを借りちゃった。

つまらなかったらどうしよう、と思って観たら、意外に面白かった。

何でも屋みたいなことをやっているチンピラな主人公とその相棒。ふと「なぜその仕事をするのか」を考え出す。そこに「正義」をすべての行動原理にする青年が登場。彼の「街からヤクザを追いだす運動」にチカラを貸す羽目になって・・・。

低予算を逆手にとって、長回しを有効に使って構成している。中でも、後半で途方もなく長い上にいろんなことが次々に起こるカットがあって、ちょっとコーフンする。何と言うか、舞台を観ているような感覚がある。すごーくだだっ広い舞台を、リアルタイムで見せられてるような、不思議な気分になるの。

で、この映画、ちんぴらを主役にしたアクションものかと思ったら、ぜんぜんちがうの。じゃあ何ものかといえば、政治もの、かなあ。「正義」を貫こうとすればするほど矛盾が生じ、裏返って「悪」になってしまう過程が描かれる。そうした「正義」への徹底的な疑念と、さらには「団結」への疑いもからみあう。

舞台みたいで政治もの、なんていうと疲れる映画みたいだけど、そんなこともなくて。登場人物たちの可笑しさあふれるキャラクターに引っぱられて、物語はグイグイ進む。まあ少なくとも「CURE」みたいに途中で何が何だかわからなくなったりしない。

全体にへんてこな映画なんだけど、でもそのへんてこさは不愉快ではない。むしろ快感。この先に、もっとすごい映画が待ってるような可能性を感じた。

ただひとつイチャモンつけるなら、主人公のモラルがわかんない、ってこと。わかんない、と言うよりモラルがない、と言うか。モラルがないというモラルしかない、と言うか。「正義」もいやだし「団結」もしたくない。そうしたすべて「ではない」ところにしか自分は存在しない、そういう男らしい。だからホームレスになっちゃうんだけどね。「ではない」男を主人公にした物語を、いまごろ撮っていていいのか、という気もする。いや実際ねえ、この主人公は何にも観客にエモーションを起こさせないわけよ。あ、だからよけいに舞台みたいなのかな。いや、それもこれも監督の狙いの範疇なのかも知れないし、それはそれで面白がったけど、でも一方で、なーんかずるい気もするんだなあ。

ラストシーンは「明日に向かって撃て!」だし、全体にヌーベルバーグとアメリカンニューシネマを合わせて倍にしようとしたような印象。つまりホンキで映画について悩んでいる感じがする。この後もう一度「CURE」を観たら新たな感想を持ちそうな気がしてきたけど、ぼくはそんな映画通みたいな真似はしないんだな。

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98/8/22「ガメラ2 レギオン襲来」

〜「怪獣映画」ってそれでいいの?〜

というわけで、劇場で「GODZILLA」を観た翌日、3歳の息子と「ガメラ2」のビデオを借りた。

支笏湖の近くに謎の隕石が落下。しかし石そのものは発見できない。そこから札幌に向かって何かが電話回線などを混乱させつつ移動し、すすきののビルでついに巨大な植物が開花する。その植物とともに、レギオンと名づけられる醜悪な昆虫のような宇宙生物が共生している。そこへなぜかガメラもやって来て・・・。

この映画、宇宙生物の設定や、自衛隊の描写など、シナリオのディテールがものすごくよくできている。脚本は伊東和典。たしかパトレイバーシリーズの脚本家。なるほど、そういう人なのね。こういう人材を日本映画界は大事にしていかないと。

物語は、女性科学者とNTTの技術者、そして自衛隊の人間たちを中心に据え、彼らを通じて宇宙生物の謎を観客に明しながら、ガメラとレギオンの対決に無理なくうまく運んでいく。脚本家だけでなく、製作者みんなで議論しながらつめていったのだろうが、まずシナリオをしっかりさせようという映画づくりの姿勢が素晴らしい。GODZILLAの脚本のどうしようもなさと比べるのも失礼なくらい、素晴らしい。

素晴らしいんだけど。でもどこか、子供向け怪獣映画の甘さ、みたいなものをぼくは感じた。

そもそも、ぼくは実はゴジラ映画にはのめりこんだけど、ガメラシリーズにはあまり思い入れはない。もちろん、1960年代生まれの男のコの教養として、最初のガメラ、バルゴン、ギャオス、くらいまではきちんと観ている。でもガメラって、だんだんよい子の味方になってきていやになった。なんかこー、最初から子供向けでーす、みたいな。あと、ジャイガーだったかな?ガメラに子供産み付けてガメラがホネになって死んで、でも生き返って、てなプロットだったと思うんだけど、そういうあらすじ聞いただけでいやだった。生き返っちゃいかんだろうと。ふん、ゴジラの方が大人さ。とか言ってゴジラ観たらシェーしててむなしかったんだけど。

新ガメラは、そういうもともとのガメラに忠実なんだろう。忠実ぶりは、最初のタイトルの文字とか、最後に「終」とでかでかと出るとか、そういったところに意図的ににじみだしてもいる。それくらい忠実だから、ぼくらの味方、子供の味方、だったり、生き返っちゃったりするところもちゃんと忠実。それは昔ガメラが好きだった人はそれでいいだろうけど、いまの映画としてそれでいいの?少なくとも子供の中でも昔のぼくみたいに、大人向けとしてもちゃんとしてるのを求める層は呼べないんじゃない?そしていまはそういう子供って多いんじゃない?だってビデオ屋でいつでも「ジュラシックパーク」観てお父さんと一緒に恐がれるんだよ。そんな生き返っちゃったりしたらシラけるじゃん、って言われちゃわない?

約一名、うちの妻はシラけてたよ。例えばガメラが飛ぶとき、前脚が羽根状になる。「そりゃないんじゃない?」と言ってた。そいでガメラがよみがえる。「へー、子供が祈ると生き返るんだ」だって。うちの妻はジブリのアニメには子供連れてくかもしれないけど、ガメラシリーズには連れていかないだろうな、もう。言っておくけど、妻はポケモンだって子供と一緒になって観るくらいの柔らかさは持ってる。頭が硬くてそういうのが許せない、んじゃなくて、要するに普通の大人。子供向けの映画で、大人をシラけさせちゃダメなんだってば。

最後に女性科学者が「ガメラは地球の守護神なんじゃないかしら。人間も環境破壊を続けてると、ガメラに・・・」なんてことを言う。「ふーん、そういうこと言わせちゃうんだ、ふーん」このセリフは彼女にとどめのガッカリになったようだ。そう。怪獣が神だってのは、物語の中で語らせちゃいけない。結果として観客が勝手に感じることで、映画の中の人間はひたすら恐がってくれなくちゃ。ありがたい教訓まであからさまにされちまっては、興ざめってもんです。

もしや怪獣映画はすでに終わっているんじゃないか。少なくとも着ぐるみの怪獣が格闘する類いの映画は、もういらないんじゃないか。脚本が練れていて、さっきほめるの忘れてたけど特撮技術もハリウッドほどCGに頼り切らなくても十分迫力があってリアリティあふれる映像を日本映画は獲得している。なのにそのクライマックスが、あからさまな着ぐるみの怪獣同士の取っ組み合い、ではもうつまらないと思う。ディテールにこだわったシナリオと特撮で、何か別の物語をそろそろつくるべきだとぼくは思うんだけど。

とかあれこれ考えてるうちに、息子は眠ってしまった。まだちょっと早かったみたいね。幼稚園に入る頃には、一緒に映画館に観に行こうな。観るのははっきり言って、和製ガメラでもハリウッド製GODZILLAでもどっちでもいいや。

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98/12/25「MIND GAME」

〜多重人格者の秀作〜

二人目の子供が生まれて以来、仕事の猛烈な忙しさも重なってなかなか家でビデオを見れない。年末休暇にさしかかって久々にビデオで映画を観た。もちろん、子供が寝静まってから、ね。

「Perfect Blue」を観た時に予告編が流れてすごく面白そうだったんだけど、なにしろ新宿ピカデリー3のひどい環境で映画を観る気になれず見逃していた。田辺誠一、鈴木保奈美、柏原崇史主演。監督は、眼鏡に小太りの情けない役といえばこの人、のいまや日本映画界に欠かせない名脇役の田口浩正。

田所と名乗る青年が箱庭を使った精神治療を体験するサークルにやって来る。やがて青年にはいくつかの人格が住んでいることがわかり、若き精神医が治療にのりだすのだが、彼にも少年時代のトラウマがあり・・・。

多重人格の話もよくあるとは言え、この映画は面白い。まず設定として、すべての人格を支配する人格が存在する点。ここは、ちょっと新しい。そして、何と言っても柏原の演技が見物。気弱な人格、女ったらしな人格、精神医さえもおそれおののく人格、といくつもの人格をうまく演じ分けて映画に迫真さを与えている。

クライマックスで精神医と青年の対決がわりとあっさりしているのが物足りなかった。でも、そこには青年の治療を通じて精神医自信もトラウマを乗り越えようとする重層的な盛り上がりがあり、構成としてはいいとは思った。

田辺と柏原という今人気上昇中の男優を使っているのだから、本来なら集客は見込めたはず。それをあんな劇場でやるからヒットしようがないじゃないか。松竹って、こういう例が多いよね。ビジネスの芽をそだてる気がからきしない日本映画界、またもや、って感じ。

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98/12/26「Lie Lie Lie」

〜会社なんかクソッくらえ、でございます〜

「12人の優しい日本人」の中原俊監督作。佐藤浩市、豊原悦司、鈴木保奈美主演のペテン師の話で、97年の秋に公開された。面白そうだな、観に行こうかな、よし明日行くぞ、と思うころには終わっていた。

佐藤浩市は個人事業の写植オペレーター。腕がいいから仕事はコンスタントに来る。それをこなしながら、彼は淡々と日常を暮らしている。そこへ、高校時代の同級生豊原悦司がやって来る。最初は商社にいるというのだが、どうもあやしい。そいでもって・・・

うーん、この映画、あらすじが書きにくい。楽しみたいなら、こんな文章読んでないでとっととビデオ屋に行くべし。十中八九あなたも面白がるだろう。なにしろぼくはかなり面白がったから。

鈴木保奈美がどうからんでくるか、上のイントロ読んでもちっともわからんでしょう。実際、彼女は後半になってやっと出てくる。でもやっぱり三人目の主人公なのよ。

説明が難しいけど、この話は佐藤浩市演じる半ば世捨て人の写植オペレーターが、生きることに目覚める物語なのよ。そしてその触媒がどうしようもないペテン師と、カイシャ社会に吐き気をもよおしている敏腕編集者なわけ。とか言ってもぜんぜんこの映画の醍醐味は伝わらんわな。

ニヒリズムで淡い人生するのはまあそれはそれで大変だけどさ、でも面白くはないわな。人との関わりを断てばラクだけど、充実感はないわけさ。どのみちクソッたれな世の中。ニヒリズムするより、クソッたれな世の中にいっぱい食わせたほうがおもしれえじゃん。

鈴木保奈美演じる、フランス語もばりばりこなす英文科出の才女が言うわけ。「カイシャなんかクソッくらえ、でございますわ」。クソッくらえなカイシャであり、世の中なんだから、ペテンにかけてやろうじゃん、そんな映画なわけ。それは一見ペシミスティックなオプチミズムなんだ。そういうなんつーか、腐ってしまいがちないまの若者たちに、前向きな生きる意志を与えてくれる映画。だって少なくともぼくは、前向きになれたもん。

この映画は、めずらしく東映が自社製作で臨んだはずなのに、なぜか公開は二週間で打ち切り。実はそのポスターはぼくの知ってる人間がつくったんだけど、映画の空気をうまく定着したいまの若者にアピールしそうないかしたモノが一度出来上がったのに、東映の内部のオジサンたちの不評を買いださいのにつくりなおしてた。だめな東映。「若いスタッフのやる気をつぶす」なんていう浪花節を言うつもりはない。そんな不合理なビジネスしてたら、時代から取り残されるよ、と言いたいね。不動産で食いつなぐのもいつまでもつかね、東映さん。

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98/12/29「黒い十人の女」

〜「あ、春」につながる戦後の男の話〜

98年の初めに、なぜかリバイバル上映されてちょっと話題になった映画。ちゃんとした製作年は知らないけど、昔の大映作品。監督は市川崑で、山本富士子、岸恵子、岸田今日子、中村玉緒に船越英二といまはすっかりジジババになった名優達が旬の若さで出演している。

考えたら市川崑の昔の映画って観たことなかった。あまり評論家がとりあげることもなかったしね。角川の横溝正史シリーズは中高生の頃観たけど。

船越英二演じるカゼ(風という名字なのかな?)はテレビ局のプロデューサー。毎日を朝から晩まで慌ただしく過ごしながらも、またロシア料理屋を営む妻(山本富士子)がありながらも、知り合う女をことごとく口説いて回っているらしい。それが全部で十人。カゼの女ったらしぶりを許せない十人の女は、共謀して彼の殺人をたくらむが・・・てな話。

カゼという名前が表しているように、この男は時代そのもの。まさしく戦後の高度成長を駆け抜けている真っ最中。次から次に女たちをエネルギッシュに口説くが、その先には目標もビジョンもない。甲斐性だってない。何も考えないでいま目の前にある仕事と女への欲望を満たして動いている。だから責任感も薄く、意外なほどふ抜けだったりする。そんなふ抜けぶりを女たちは一見許してないように見えて、実は許している。

この映画はピチカートファイヴの小西ナニガシがスタイリッシュでおシャレな映画としてとりあげて話題になったらしいけど、本当はすごく時代への批評の映画であり、いま観ると面白い。カゼのエネルギッシュさやふ抜けぶりこそ、いま日本が猛省している姿だからだ。

ぼくはこれを観ながら、「あ、春」と対比していた。カゼは「あ、春」で佐藤浩市の前に突然現れる父親なのだ。カゼは最後まで何かと向き合うことをしなかったが、カゼが年老いて笹一になった時、はじめて息子との絆を確認しようとする。だが、息子との絆は、自分が戦後を駆け抜けた唯一の証は、黒い十人の女を一人分に集約した富司純子に奪われてしまう。黒い十人の女はその若い時にカゼを殺すことに失敗するが、年老いてから命を奪うのだ。

とかいう話は「あ、春」を観ないとわからんから、観るしかないよ。

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