性差別問題
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家族を送りだして朝食の後片付けを済ますと、薫はテレビのスイッチを入れた。
『惨殺!両親をオノでめった切り!!』
扇情的なテロップが目に飛び込んでくる。
「おやおや」
真面目くさった表情をしたレポーター役の中年男が、カメラに向かってしゃべり続けている。
ずずずずず。薫はお茶をゆっくりすすりながら、画面をぼおっと見つめる。
この時間がいちばん幸せだな、と薫は思った。別にワイドショーがとりわけ好きなわけではない。ただ、慌ただしく朝食の準備をし、家族をせき立てながら食事をとらせた後、何もせず何も考えなくてすむこの午前中のひとときには、なんともいえない至福感があるのだ。
独身時代は、愛する人に料理をつくったり、子供たちに愛情を注いだりすることにこそ幸福があるのだと信じていたが、何のことはない、家族のいない時間の方がよほど心が満ち足りる。結婚して十五年もたち、子供も小学校高学年になると、家庭生活なんてそんなものなのだろう。
『発覚!!相原京子と売れっ子カメラマンの半同棲生活!!!』
テレビでは早くも話題が変わり、今度は若い女性レポーターが車から降りる女優にマイクを向けている。
「このごろは、芸能ネタの方が順番があとなんだなあ。」
思っていることを声に出して言ってしまったことに気づき、薫は思わずはっとする。
去年あたりから独り言を言うようになった。子供が塾に通い始めたことと関係があるのだろう、と自分で分析している。
娘の聖子はいわゆるオタクの気があるのか、学校から帰宅しても外へ遊びに行こうとせず、一人でテレビゲームばかりしていた。女の子のくせに覇気がないと、薫はいつも小言をいっていた。ひょっとするといじめられているのかもしれないと心配もした。それが塾に通い始めてからは、心なしか快活になり、塾のない日も友達と遊びに出ていくようになった。
小言も心配も減ったが、聖子とのコミュニケーションも減った。その分だんだん独り言が増えてきたようなのだ。あれはあれで、自分にとって情熱を傾けられる作業だったのだな、と思う。エネルギーを注ぐ対象が無くなったがために、今度は薫自身が内向的になっているのかもしれないのだ。
聖子が幼かったころは、公園で知り合った親同士の付き合いもあったのだが、それもこのところなくなった。会話を交わす相手もいなければ、やりたいことがあるわけでもない日々である。何か習い事でも始めようかな、とぼんやりと考える日々だった。
そうだ、前々から頭の中で計画していた、ドールハウスを始めよう。私鉄で15分ほど行ったところに、大きなホビーショップがあり、ドールハウス作り用のさまざまのミニチュアが売られているのを、半年ほど前に見つけていた。それ以来高校時代に少しだけ作ったことのあるドールハウスを、本格的に始めてみようかと思っていたのだ。一通りの家事を昨日済ませているので、今日はいい機会かもしれない。
カーディガンをはおってマンションを出ると、秋の柔らかな日差しが全身を心地よく温める。薫はいくぶん、気分の高揚を感じた。考えてみれば、夕食の買い物以外の目的で一人で外出するのは、久しぶりかもしれない。無意識に顔がほころんでいた。
駅へまっすぐ続く商店街に入ったところで、向こうから見覚えのある顔が近づいてきた。
えっと、あれは…。たしか聖子の同級生の関係…じゃないなあ、うーんと…。
そうだ、思いだした。マンションの上の階の高田さんの奥さんだ。前にゴミ置場が猫に荒らされるのが問題になった時に、話をしたことがある。ご挨拶しなきゃ。
と考えをめぐらす間に、あちらから話し掛けてきた。
「いやあ、これはこれは、大山さんの奥さん。今日はじつにいい日和ですなあ。」
「どうも、高田さんの奥さん。同じマンションなのに、ご無沙汰しております。」
「いやいや。今日はどちらへお出掛けですかな?」
「ちょっと朝日ヶ丘まで買い物に。」
「おおっ、ひょっとしてイセヤホビーですかな?」
「あ、いや、まいったなあ、お見通しですなあ。」
「いえねほら、前にドールハウスの話をしておられましたからなあ。」
「おやそうでしたっけ。ぼくそんなことお話ししましたか。」
「ええ、そりゃあもう楽しげに話されてましたよ。完成したらぜひ、見せていただきたいものですなあ。」
「いやあそんな人様にお見せするようなものになるかどうか。それでは、失礼いたします。」
「いってらっしゃい。」
別れて歩きだしてから、高田さんの奥さんの名前は何だったろう、とふと思った。確か「信」がつくのだ。忠信、定信、道信、春信…いやちがうなあ、なんだっけ。
自分は記憶力が悪いのだった。妻の会社の上司や同僚から電話がかかってきてもすぐ名前を忘れてしまう。
「まったくあなたって、記憶力悪いのよねえ。」と妻によくののしられる。
別にいいじゃないか。男は基本的には仕事をするわけじゃない。洗濯や掃除に、記憶力なんていらないじゃないか。そんなとき薫は妻にそう言い返す。
するとだいたい妻は、ふん、とあからさまに馬鹿にして、鼻を鳴らすのだった。