先週は19日の日曜日に更新。今週は31日の金曜日に更新で、なんとか週刊化の面目を保ったぞ、と。
今日はぼくの好きなティム・バートン監督の新作「スリーピー・ホロウ」を観に行った。でもまあまあ、ってとこかな。お得意の「素敵な悪趣味」は随所に出てたけど、企画から参加したわけでもないみたいで、「ゴシック・ホラー」をうまくやってくれそうだってんで起用されたらしい。「シザーハンズ」や「マーズアタック」に比べると根本からティム・バートンらしい映画ではないなあと。
それでもやはりスクリーンから醸し出されるムードは独特。ティム・バートンは美術がいいんだよね。かるーいアメコミだった「バットマン」を暗黒タッチでまったく新しい物語として甦らせたように、「スリーピー・ホロウ」もセット、小道具、衣装、特殊効果のひとつひとつがいかにもティム・バートンだった。18世紀末のアメリカのおぞましい伝説が生きていそうな田舎町が舞台なんだけど、この町は丸ごとつくったんだって。お金かかっただろうなー。
いま「美術がいい」と書いたけど、映画の質の重要な要素に(広い意味での)美術がある。
例えばぼくの仕事である広告制作。たかだかポスターつくるだけで制作費が300万円ですとか、たった15秒のテレビCFが1500万円かかりますとか言うと、普通の人はびっくりするだろうね。でもね、それはぼくらが法外なギャラをとっているからではなく、「鑑賞」に値するビジュアルをつくりだすにはそれなりにお金がかかるからなわけ。
例えばさあ、「気持ちのいい青空をバックににっこり笑う女のコが商品を手に持ってます」なんていう、まあ一見どうでもいい、なんだかそんじょそこらで撮れそうな写真をポスターにしたい、としましょう。するとまず「女のコ」を用意しないとね。20代前半の独身で普段は一般的な企業で事務をしている、同世代の女性にそれなりに共感されそうな女の子が休日にその商品を楽しんでいます、みたいな設定に合う「女のコ」を何十人もオーディションして探すわけ。それから「気持ちのいい青空」はどこで撮れるだろう、というわけで、代々木公園かなとか、青空は海岸がいちばんきれいだよねと千葉の方にロケハン行ったりとかいろいろ苦労する。ロケ地が決まったらカメラマンと撮影機材を載せてロケバスを手配し、現地でメイクさんがメイクをはじめ、スタイリストが用意した何点かの衣装を着てもらって何十カットか撮影すると。
ね、このように「ビジュアル」をカタチにするのって大変なわけ。たった一枚の写真でも。
だから映画の場合、いま書いたことの何百倍かわかんないくらい、考えなきゃいけない要素が多いし、お金もかかってしまうことになるよね。「リビングルームで会話する夫婦」のシーンを撮るためには、シナリオに見合ったリビングをスタジオにセットで組んで、その夫婦にふさわしい家具や小道具を配置して、それぞれの衣装も用意して、となる。
FILE8で「呪縛」を「演出がいい」とほめたけど、そこで言う「演出」の中には「美術」も入ってたつもりなの。おそらく監督は「この物語を安っぽい美術でつくってもダメだ」と判断し、いかにも日本経済を中枢から支えてきた都市銀行の重役室らしい豪華なセットをつくり、豪華な絵づくりの中でこそ「呪縛」の物語は力強く観客の心を揺さぶるのだ、と考えたんじゃないかなあ。で、確かにあのゴージャスなセットだからこそ、映画そのものが豪華に感じられたんだと思う。
映画の見応えというか、「1800円払って観てよかったなあ!」てな気分の中には、役者の演技や物語の面白さや監督の技量はもちろんだけど、「素晴らしいビジュアルだったなあ」もとても重要な要素を占めているはずなんだよね。そいでもって「素晴らしいビジュアル」にはそれ相応のお金もかかるわけ。
さて。
FILE8の最後で「シネコンによる映画産業の変化が日本映画にとっていいことずくめってわけでもない」と書いた、その続きを書いていこうと思う。
続きはこうです。「日本映画はハリウッドと真っ向から勝負していかざるをえなくなる」。
だってね。いままではブロックブッキングがあった。ということは、「日本映画しか上映しない劇場」が系列化されて確保されていたわけ。だから、日本映画を作らないわけにはいかなかったの。東宝、東映、松竹それぞれが、配下の劇場のプログラムを埋めていくためにとにかく、多少客が入らなくてもいいから、作品を誰かが作らなきゃいけなかったわけ。夏休みの興行ができる作品ないの?あ、それでいい、それ上映するからつくっといて、というニーズがあった。お客さんの側にニーズがあるかどうかじゃなく、流通の側にニーズがあった。中央官庁の介在しない「護送船団方式」がなぜか成立してたのが映画産業だったの。そこにはかなり「日本映画の中枢を担ってきたわが社の伝統を消すな」みたいなビジネスとは180度角度のちがう浪花節な意識も働いていたんだろうね。
これが、映画興行の主戦場がシネコンになり、ブロックブッキングが有名無実化してしまうと、流通の側のニーズが純粋に「で、お客さん来るの?」になる。浪花節は0%。しかもシネコンはハリウッド映画も上映するわけでしょ。
ハリウッド映画の製作費の平均って20億円くらいなんだって。20億って言ったら、日本映画だと超大作だよ。ここでね、最初に書いた「見応え」には、つまり映画の商品価値には「素晴らしいビジュアル」も重要だって話がからむわけ。ハリウッド映画はもう予算の段階で「素晴らしいビジュアル」がつくりやすいってことよね。そういう映画群と、日本映画はシネコンでまったく対等に勝負しないといけなくなるわけ。対等に勝負できないと、上映してもらえないわけよ。
これってね、いま各産業で起こってる「グローバルスタンダードによる変化」と全く同じなんだ。映画界のブロックブッキングみたいに、それぞれの産業でそれぞれに、国内企業を守る仕組みができていて、そのおかげで食えてた企業とか人間とかがいっぱいいたと。そいでもって、日本映画で生きる人々も、他の産業と同じように、ガイシと勝負しないと生き残れなくなっておるわけね。
さーて、どうするよ、日本映画。このままでは、玉砕するぞ。いやなに、やりようはあるけどね。
(2000年3月31日)