FILE5:「マグノリア」〜やっぱキャラクターっしょ2〜

 

渋谷パンテオンで「マグノリア」を見た。

映画の話の前にごめんなさいを書かなきゃ。

先月週刊化を宣言した、その舌の根も乾かぬうちに、先週は更新しなかった。

言い訳をすると、先週「クッキーフォーチュン」を観たのでFILE4を9割方書いてたんだけど、その日は寝ちゃったのね。で、翌朝起きたら更新したつもりになっちゃってたの。ある方から「週刊化はどうなったのよ」というメールをもらって、あ、しまった、あれ最後まで書いてなかったんだっけ、と、いまこれと一緒に慌てて更新しようとしている。許されたし。しかしそうか、そんな定期的に観てくれてる人、いるんだ。ありがたいね。

じゃあ映画の話に戻るね。FILE4の「クッキーフォーチュン」でキャラクターの話を書いたら、「マグノリア」がまた輪をかけてキャラクターの映画だった。この二本、先週今週と続けてみたせいもあって、どこか印象が似てる。でかい劇場でやってるだけあってさすがに「マグノリア」の方がすべてに大袈裟だけど、一方でこんな大々的ロードショーするタイプの映画なのかな、なんてことも思った。そこそこの映画好きじゃないと「なんだったの?」って思っちゃうかも。深いようでいて、意外に深いこと考えない方が楽しめるかも。クライマックスで起こる珍事はその珍事ぶりが凄まじくていいよ。

で、キャラクターの話。

「マグノリア」はホントにまさしくキャラクターで出来ている映画。ビルが爆発したり宇宙船が画面を駆け巡ったりずだだだだと機関銃ぶっ放すのも映画的だけど、キャラクターがおもろいだけで十分映画的なんだと教えてくれる。

十人くらい出てくる人物のうち誰もが主人公ではなく誰もが主人公である。それぞれがなんだか変なやつで妙な悩みだのトラウマだのを抱えてそう。しかしこいつらを一度に並行して描いていってどこかつながってくるわけ?でもきっとつながってくるってことなんだろうなあ、と思わせ期待させるプロローグがちゃんと最初に語られてる。よくできてるなあ。ついでに最初にキャラクターの基本を観客に紹介して回る部分の演出がやたら凝っててカッコいい。タイトルの画面への出方がまたカッコいいぜ。

さて、そういう魅力的で興味深いキャラクターを設定すれば映画になるのか。ちがうよね。

いちばん重要なのは、そうしたキャラクターたちが、映画のクライマックスでそれぞれ何かを解決しないといけない。「何かを取り戻す」とか「何かに目覚める」とか「何かをやり遂げる」とか、あるいは「死ぬ」とか。それによって観客は「カタルシス」を得るわけ。それではじめて「映画」になれるわけ。もちろん「それをわざとしない」のも有りだけど、そうとううまくやらないと難しいね。

また「解決」が「カタルシス」にまでなるには、ただそれぞれのキャラクターが面白く描ければいいってもんでもない。例えば「何かを取り戻す」が「カタルシス」になるためには、前もって「何かを失っている」ことを描いておいてあげないと「よかったね」と思えない。仮に「何か=勇気」であるならば、彼がいかに勇気がなくてウジウジ悩んじゃってるかを見せるエピソードをつくっておかなきゃね。

ところで、「週刊化はどうなったのよ」というメールをもらって慌てたわけだけど、やっぱりそういうメールは書き手としてははりきるから、どしどしちょうだいな。「こういうテーマで書いてくれよな」とか「あんたの書いてる、ここには納得できないぜ」とかでもいいし。

というわけで、以降、週刊化は(できるだけ)守りますので、さかいたにさん、許してね。

 

(2000年3月4日)

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