渋谷シネセゾンで「クッキーフォーチュン」を見た。ロバート・アルトマン監督の新作で、グレン・クローズをはじめリブ・タイラーやクリス・オドネルなどギャラの高そうな役者がいっぱい出てる。アルトマンだから、ギャラ安くても出たい、ってことなんだろうなー。グレン・クローズなんかもう生き生きしてるもん。
アルトマンってやたら評価高いけど、そんなにすごい監督なんだろうかといつも思う。題材が反権力的だってだけで、果たして「演出」としてはどうなんだろ。生きながら神話化されてる気もするんだな。とは言え、「MASH」と「ロング・グッドバイ」は大好きだけど。エリオット・グールドもね。
さて「クッキーフォーチュン」は面白いけど面白くなかった。なんとも中途半端な感想だけど、決して退屈はしなかったけど、見終わって「そいで?」ってな感じ。二時間かけてこの物語をぼくが見る必要はあったのだろうか、と。
で、今日のお題は「なんだかつまんなかったのに二時間退屈もしなかったのはなぜ?」ってお話。
その答は「キャラクターが練られていて面白かったから」。
小さな田舎町の何やら複雑な血縁人間関係の話なんだけど、その人間関係に関係する人物たちそれぞれのキャラクターが良くできていた。単純にそれぞれが面白いってだけでなく、その奥行きというか、背景というかまでちゃんと練られている。それぞれが、何を背負って生きてきたか。何を目標にしてきたか。
そのあたりは当然、シナリオメイクの段階でよくもんであるってことで、今までと同じ結論になっちゃうんだけど、脚本でキャラクター設定をきちんとしなきゃね、ということが言いたい。「日本映画をぶっとばせ」の主題に添って言うと、これまた日本映画ではキャラクター設定が練れてないなーって物が多い。
日本人に出来ない、わけではない。これもようするに、脚本の段階で時間をかけてないから。
面白い小演劇ではキャラクターが練れてるの、多い。「眠れる森」などのテレビドラマで活躍する野沢尚なんかは、企画書の段階で登場人物それぞれについてA4一枚分くらいの背景を書くそうだ。時間とエネルギーと才能があればできる。それを脚本家に与えないで進めるのが常識になっている映画界のシステムに問題があるわけ。
このキャラクターの話は、この後、FILE5:「マグノリア」に続く。
(2000年2月25日)