「シュリ」を見た。面白かった。
脚本がいい。やっぱり映画は(まず)脚本だなと思うよ。
いや、素晴らしく練り上げられた最高峰の脚本ってワケではない。むしろ穴もある。でもぼくが言いたいのは、シナリオの段階で観客をどう引き込んでいくかという計算があるか、そしてそのためのアイデアが盛り込まれているか、だ。映画にとって大事なのは、辻褄が合うかどうかより、計算とアイデアなんだ。(もちろん、その上で辻褄を合わせないといけないけれど)
日本映画のポスターの仕事をしてきて驚いたのが、脚本だった。
宣伝部からポスター制作の依頼が来る。その時点でメインキャストも公開スケジュールも決まっている。もちろん監督も脚本家も決まっている。撮影日程だってだいたい見えている。ところが、脚本はほとんどの場合、第一稿がようやくあがった段階なんだ。すんごく変じゃない?
だって例えばクルマに置き換えてみればさ。発売日も決まってて、工場の体制も整っていて、広告案まで考えはじめてるのに、設計図はまだはじめたばかりでーすって、そんないい加減な話はないでしょ。設計図が決まって、クルマの完成像が見えて、そこで初めてそのクルマを世に出していいかどうかが問われるわけでしょ。映画の場合、それがない。うん、この設計図なら売れる映画になるね。そういう企画の決まり方はしない。
どうしてそんなことになっちゃうか。
日本の映画の場合、脚本以外の何かによっかかって映画の企画が決定されるわけ。この本はベストセラーだから映画にしたら人来るんじゃないかとか、誰々主演の映画ならいいんじゃないかとか、いまこういうジャンルの映画があたる傾向があるからさ、とかね。
じゃあハリウッド映画(っていちいちハリウッドを出すのもなんだけど、あっちはシステム的に優れた面が多いからどうしても参考にしちゃう)の場合はどうか。もう映画の企画のやり方が構造的に違う。あらかじめ完成された脚本が市場をうろうろ歩き回ってるわけ。結局は産業としての規模が違うから底辺の大きさも違うってことなんだけど。でもハリウッド映画って、中には原作有りのもあるけど、大部分はオリジナルなストーリーでしょ。それはそういうことなんだな。映画会社が脚本の段階でとりあえず「買う」。そういう企画のストックを持っていて、じゃあどんな役者でどの監督で映画にしたらどんな商品になるかを考える。そいでもってウチで権利持ってても使えないよなと思ったら売っちゃったりする。乱暴だけど自由。ビジネスライク。そういう環境だからこそ、タランティーノやウォシャウスキー兄弟(彼らはまさに脚本を売ることで映画界入りした)みたいな新しいスターがにょきにょき現れる。
なーんだそうか、じゃあぼくもせっせと素晴らしいシナリオを書いて東映や東宝に売り込みに行けばいいのか。と思ったら大間違い。そんなことしてもムダ。
なぜならば、日本のほとんどの映画プロデューサーはシナリオを判断できない。うん、この脚本ならあの役者とその監督をキャスティングすればヒットするぞ!なんてスルドイ読みができる人がいない。いたとしても、今度は上層部を説得できない。で、その原作小説は何万部売れたの?なに?原作なし?そんなもんあたるわけないだろ。で、おしまい。
そうすると日本映画にやっぱり未来はないんじゃん。おっとっと、あきらめるのは早いって。変わるから。どう変わるの?それは、また、別の機会に。
(2000年2月3日)