ぼくのお気に入りの役者ティム・ロビンスが監督した「クレイドル・ウィル・ロック」を恵比寿ガーデンシネマに観に行きました。強烈な作家性が演出にあるわけではないけど、ちゃんとしたつくりで安心して物語に没入できた。「ホワイトアウト」の若松監督は見習いなよな。
1930年代の大不況時代。アメリカ政府はルーズベルト大統領のニューディール政策にのっとり(世界史で習ったよね)失業者に仕事を与えるプロジェクトを次々に立ち上げた。演劇人のためにも(ってとこがアメリカだね)ある劇場で様々な興行を行っていた。しかし時は共産主義とその対抗勢力がパワーを持っていた時代でもある。「組合」をモチーフにしたある芝居が右寄り議員の弾圧にあってしまうんだけど、スタッフと役者は上演のために団結する。
芝居の演出家が若き日のオーソン・ウェルズだったりするのはオツだけど、アメリカの歴史や背景に興味がないと固い映画かも。ティムの奥さん、スーザン・サランドンをはじめ著名な役者も出てるんだけど、全国大ロードショーする作品でもあるまい、ってんで、都内だとガーデンシネマ単館の興行。平日ながらお客さんもそこそこ入っていて、作品に合った上映館だと言えるね。
で、今回は「映画っぽいと公開規模」の話を少し広げて「映画っぽいと公開形態」というテーマで書いてみましょう。
「クレイドル・ウィル・ロック」はそのちょっと教養が必要なムードと、派手なアクションやSFXは出てこないけど30年代アメリカの時代を見事に再現した美術が特徴的な映画。だからガーデンシネマはぴったりなんだね。ここはウッディ・アレンの作品もやっているなど、劇場の規模・ムードと作品のバランスが絶妙だ。
「クレイドル」とガーデンシネマの関係はわかりやすい例だけど、映画の内容と劇場は観客にとって大きく関係する、でしょ。なのに、それを無視して上映されるケースは多い。
ぼくは一時期、とにかく「日本映画」にこだわって有名無名を問わずとにかく邦画を観ていた。すると、この内容でどうしてこの公開形態なのかと不平を言いたくなる映画がいっぱいあった。
例えば「CURE」。この映画はかなり怖いし深い物語なんだけど、途中からわかりにくくなり言ってしまえば「難解な」映画。なのに松竹系で全国ロードショー公開された。東京だと東銀座の東劇という小屋だった。これはなかなか立派な小屋で、いつもはメジャーなハリウッド映画もやっている。銀座に買物に来た帰りに寄ってみたくなる立地。実際、ぼくが観た時も、三越の袋を持った母娘が来ていた。役所広司がでかでかと出ている看板にも引き寄せられたであろう彼女たちは、「なんなの、これ?」とつぶやきながら劇場を出ていった。
一方「Samurai Fiction」。ロックミュージックをBGMにした時代劇。だけど、物語はとってもわかりやすい。音楽好きの若者から時代劇好きのおばちゃんまで満足させるチカラを持つ映画だった。ところが上映は有楽町シネ・ラセット。東劇とは正反対のイメージのアート系映画を上映する小屋。この劇場としては盛況で若い観客がいっぱい来ていたけど、当然おばちゃんは来ない。もっとメジャーな形態で興行する方がふさわしい内容だったとぼくは思うんだけど。
上の二つは松竹が奥山和由の解任などで、大きく揺れ動いていた時期の映画だから特例かもしれない。ただそれにしても、作品と上映館の関係、あるいは作品と公開規模の関係を考えてない日本映画は多い。
なんでこの内容で全国ロードショーするのか?つまり全国ロードショーというのは大した映画好きじゃないおにいさんが、好きなコをデートに誘うとっかかりに「こんどこういう映画観に行かない?」とドキドキしながら言う、そういう映画なはずだ。だったらその対象に入らないと意味ないだろう。誘われた女のコが「あ、それ面白そうだね」とか「へー、そんな映画に誘うなんていかしてるじゃん」とか思ってくれないと困るだろう。
また単館でやるにしても、その中身にあった立地の映画館でやった方がいい。例えば「鮫肌男と桃尻娘」は渋谷シネセゾンでの上映だった。また「ワンダフルライフ」は、なんとやはり渋谷のシネマライズだった。両方ともまず、渋谷での上映はアート系の作品を映画好きだけの閉鎖的な雰囲気に閉じこめずにすんでいたと言える。さらに、「鮫肌」は浅野忠信がドンパチやらかすワイルドな映画で、道玄坂にあるシネセゾンに合う。また「ワンダフルライフ」の繊細さは、おしゃれな洋画を上映するシネマライズにドンピシャだ。こないだ観た「顔」とテアトル新宿の関係もナイスマッチング。
日本映画はいまこそ、その企画の内容と公開のされ方を関係づけてとらえるべきだ。全国ロードショーなのか、単館か。全国ロードショーなら、東宝か東映かでもずいぶんムードはちがう。はっきり言って、若者向けのこじゃれた作品は東宝には合うが、東映には合わない。これは、銀座や渋谷におけるそれぞれの系列館の立地に象徴されている。東映に合うのはもっと年配向けの言ってみれば泥臭い映画だ。最近の東映でヒットしたのが「金融腐食列島 呪縛」「鉄道屋(ぽっぽや)」「失楽園」などであることに(そして「GTO」やアイドル映画が大コケしていることにも)それが如実に現れている。東宝系でヒットしたのは「ホワイトアウト」「リング」「踊る大捜査線」「ShallWeダンス?」などだ。ここにもある傾向が見える。(ひょっとしたら東宝系で大コケした「のど自慢」は東映系ならヒットしたのかもしれない、とさえ思えてくる)シネコンと普通の公開形態でも微妙に考え方を変えるべき時も来るだろう。単純な話、「ポケモン」などの子供向け映画は郊外のシネコンだと大入満員なのだ。
それぞれの興行形態で変えるべきなのは、表面上は「題材」ということになる。でも、ぼくが書いてきた筋道からすると「映画っぽさ」のちがいだと言わなくてはならない。企画された映画の「映画っぽさ」は何なのか。それが見えれば、ふさわしい公開形態も見えてくるはずだ。
いまはまだ、配給会社がいきあたりばったりにプログラムを埋めるために企画を探し、製作会社はとにかく公開のあてをやっぱりいきあたりばったりに探している。それがうまくいけばいいけど、たいがいは成功する可能性をつぶしてしまっている。もっと言えば、「この映画っぽさは誰が欲しがるだろう」なんてことさえ議論せずに製作され公開されてしまう。あ〜あ、もったいないな、バカみたいだな。
さて、ここで、次回予告。しかも次回はすぐさま明日更新予定。
なんと、いよいよ、映画企画募集をしてみようじゃないか。詳細は、なにしろこれから考えるので、次回を待て。
(2000年10月23日)