本来なら今回はいよいよ「映画っぽいと公開規模」について書くはずだったんだけど、先週金曜日に「ホワイトアウト」を観てしまった。観てしまったらまた少し別のことを書きたくなったので、そうするね。自分勝手だなあ。いいじゃん、自分のホームページなんだからさ。
さて、悪評も聞いていたのでまったく期待しないで観た「ホワイトアウト」なんだけど、これがマイナスの期待をさらに下回る映画だった。ここ数年でも指折りの最低ぶり。それはあなたが期待しないで観たからでしょうと言いたい?でもね、同じくらい期待せずに観た「MI:2」は意外に面白がったのよ。映画って、期待しないで観た方が評価が高くならない?そういう意味では、「ホワイトアウト」はよほどのことがない限りけなされずにすんだはずなのに「指折りの最低」になっちゃった。いかにひどい評価を下しているかってことね。
まずこの映画をほめる人はいくつかに分類できる。原作を読んでこの物語を気に入っちゃってた人。日本映画にしてはがんばってるじゃないかと少々ナショナリストになっちゃってる人。あとはまあ、ヒットしてるから無批判にほめちゃってる人。織田裕二大好き、って人も多いかな。「ホワイトアウトはいい!」と思っちゃったあなた、いまのどれかにあてはまってない?
何がダメかって、演出がダメだね。映画がわかってないよ。テレビドラマの演出家だから映画がわかってないなんて偏見じみたこと言いたかないけど、言わざるをえない。とにかく、映画として面白くできるところをぜーんぶ(あえてぜんぶと言い切る)はずしちゃってる。
主人公と親友の友情を示すエピソードも小道具もないから、死なせちゃった後悔が共感できない。そこに共感できないから、主人公がテロリスト相手に超人的に戦うことにも共感できない。なんてのは序の口。全体的な位置関係の説明のなさ。主人公の場面場面での目的の不明解さ。爆発や水流などスペクタクルシーンの省略によるそっけなさ。主人公のアクションシーンとテロリスト内部の悶着をカットバックしたことによる興奮のなさ。テロリスト首領の仕組んだトラップに伏線もヒントもないためにちっともびっくりしないこと。松嶋菜々子への演出の手抜き(マシンガンぶっ放して反動もないのかよ)。極め付けはクライマックスでヘリが落ちるほどの雪崩が起きたのに主人公はピンピンしてる。なるほど、悪玉と心中するのかあと思っちまったぜ、おれなんか。最後に、あれだけこってり大活躍したのに、長身の松嶋を雪の中だっこして歩けるなんて。こんなやついねえよ。
おかしいことだらけじゃないか!なんでみんな黙っていられるんだ。いまの国会にもおかしいことだらけだけど、まだマシだ。みんな、デモしなくていいのか。叫ばなくていいのか!
最近のハリウッド映画を観て、どの監督が演出しても同じじゃないのか、なんて思うこと多かったの。ジョエル・シューマカーなんて最たる例。だけどエライよ、シューマカーさん、見直した。最低限、映画としての醍醐味ははずしてないもん。若松節朗だっけ?こいつに二度と映画を撮らせないでね。ヒットしたからって勘違いしちゃダメだ。映画がなーんもわかってない。こいつは演出とは「演技指導」でおしまいだと思ってるらしい。あーハラ立つ。映画を観て演出家に腹が立ったのは久しぶり。あ、でも、「催眠」の落合信彦もそうだった。やっぱダメ。テレビ出身は。
今回は映画を長々とくさしてしまった。さて本題。
かようにひどい最低な駄作のクズ映画「ホワイトアウト」はなぜヒットしたのか?
答えは「織田裕二主演の娯楽大作らしい」から。
つまりは、織田裕二はいまや、日本にひとりしかいない「ビッグな映画スター」なわけ。
「映画っぽい」についていままでいろいろ書いてきたけど、いちばん映画っぽい要素は役者なんですな。そいでもって、日本映画界には映画っぽい役者はいなかった。なにしろみんな、舞台かテレビが本拠地だからね。本拠地が映画だって役者はいない。織田裕二だってもちろん、こないだまではテレビの役者だった。それが、「踊る大捜査線」の空前のヒットで、映画スターになっちゃったのよね。いや、映画は監督のものだろう。「踊る」の功績は織田裕二ではなく本広監督にあるだろう。それは映画通の言い草。映画興行が相手にする一般大衆にとっては、役者こそ映画。スターこそ映画なんだ。本広監督の新作「スペーストラベラーズ」の興行がいまいちで、「ホワイトアウト」が大ヒットしたことが如実にそれを証明している。
そうすると映画通はこう言いそうだ。うーん、しょうがないねえ一般大衆は。そういう表層的な見方しかできないんだなあ。そお?役者中心の映画の見方は通俗的でいけないこと?そう言いきれる?少なくとも、ぼくたちが映画を見るかどうかの判断材料の中で「役者」って大きくない?スターってあなどれなくない?
例えば去年の秋の話題作「シックスセンス」。あの映画にブルース・ウイリスが出ていなかったら、あんなにヒットしなかっただろうね。「マトリックス」にキアヌ・リーブスが出ていなかったら、特撮オタクなカルトムービーになりかねなかった。あるいは、あなたがふと映画を観ようかというとき、ぜーんぜん知らない役者だらけの映画とロバート・デ・ニーロ主演の映画と、どっち観る?(あくまでハリウッド映画の比較ね)九分九厘デ・ニーロの映画じゃない?
他の多くの商品と同じく、映画という商品にとっても「ブランド」は大きい。いや、「試す」ことができない映画にとって、普通の商品以上に「ブランド」がチカラを発揮すると言える。そして、もっともわかりやすいブランドこそ、「スター」なんだな。ジュリア・ロバーツほどの、トム・クルーズほどの、シュワルツェネガーほどのスターが出てるのなら、あるレベルの映画なんじゃないか。安心して1800円出して観ていいんじゃないか。
もちろん、まれには監督が「ブランド」性を持つ場合もある。「MI:2」におけるジョン・ウー(アメリカでの話)なんかそうだね。タランティーノとかさ。スピルバーグとかね。古くはヒチコックなんか典型。
でも監督がブランドにまでなるのは、素人が見てもあからさまな作家性(しかも娯楽的な)がないと、ね。上に挙げた監督にはあるでしょ。もう明解な作家性がさ。「あからさまな」ってとこが重要で、あからさまでなくても作家性を持ってる監督は多いし、作家性の有無が監督の良し悪しってわけでもない。でもブランド力を持てるのはあくまで「あからさまな」作家性。
まあ監督の話はおいといて、スターのブランド力の話ね。映画における「スター」の存在ってのは語りだしたら止まらない。どんな人でも、さほど映画好きじゃなくても、映画スターについてひとつやふたつは語れるんじゃない?ことほどさように映画スターは人々の心を動かす。どんなにSFXが進もうと、映画の魅力の最重要ポイントは役者だと思うんだな。そしてどんなスターが主役かで、映画の「格」みたいなものが印象づけられてしまう。
ところが、日本映画には「スター」がいなかった。正確に言うと、いなくなってしまった。昔は、勝信だの裕次郎だの健さんだのミフネだの、映画スターがうようよしてた。最後の映画スター渥美清も失った日本映画界には、スターがすっかりいなくなっちゃってた。いなくなっちゃったのはテレビに呑まれたからだけど、同じようにテレビに存在をおびやかされたハリウッドにはスターが生き残った。うまいこと、テレビスターは映画スターのワンランク下というポジションの確立に成功した。これは日本とアメリカの国力の差などでは決してなく、それぞれの映画界の戦略の有無が原因。
(ちょっと待って。日本の映画スターも、70年代後半から80年代前半まで新しく出てきたことがあったね。たった二人だけ、薬師丸ひろ子と原田知世の二人だけ。そう考えると、角川春樹ってエラかったねえ。)
まあだから、50年代を頂点とする日本映画最盛期の後は、二人の例外を除くと「映画スター」は消えちゃってた。そこへ、織田裕二というわけ。彼はいまやドル箱スター(死語?)。きっといま、次回作の話でひっぱりだこにちがいない。当然、安易にテレビドラマには出ないという方針を打ち立てただろうなあ。(もし安易に出たら、事務所は大バカよ)
さて、彼のような映画スターは日本映画界には必要だ。スターこそが映画っぽさの最たるものだとすれば、映画っぽい企画や脚本だけじゃ片手落ち。第二第三の織田裕二に登場してもらわねば。でもねえ、これはねえ、難しいねえ。織田裕二の場合はかなり偶然だもんねえ。
そのためにも「中規模な公開」ということが必要。つまりここで「映画っぽいと公開規模」につながってくるわけやね。うまくできとろうが。でも続きはまた、次回でね。
(2000年10月10日)