えー勝手ながら先週は休刊ということで、「日本映画をぶっこわせ2000」四月第三週号をおおくりいたしやす。
「踊る大捜査線」の空前のヒットで注目株の本広克行監督の新作「スペーストラベラーズ」を観たよ。
なかなか面白い。観て損はないと思うなあ。
でも一方で、うーんもっと面白くできたんじゃないかなあとも思ったのね。前半かなり退屈だし、途中で前半の退屈さを補って余りある面白さを発揮するんだけど、だんだんボルテージ下がっちゃう。せっかくのいいキャラクターがあっさりいなくなったり、どうなるんだろうという小道具があまり生きてなかったり。
演出上というより脚本上でけっこう欠陥が多いと思った。そうか、じゃあ本広監督じゃなくて脚本の岡田恵和が悪いんだ。と言いたくなるだろうけどそうじゃない。なら監督がいけないの?それもあるけどそうでもない。何が悪い?システムが悪いのさ。
「ぶっこわせ2000」ではかなり何度も「日本映画は脚本がんばらなきゃ」と書いてきた。いい脚本のためにはお金と時間をかけなきゃ、と。でも「スペトラ」のパンフに載ってる本広・岡田対談を読むと、脚本をかなり煮詰めた様子がうかがえる。何度も書き直したみたいなんだよね。それでもぼくは脚本に物足りなさを感じた。もっとなんとかできたはずと思った。それはぼくが本広・岡田両氏より映画がわかってると言いたいんじゃないの。そこにシステムの問題を見いだしたいわけ。
ハリウッドには「シナリオ・プロデューサー」という職種があるのね。日本映画にないのがそれ。
日本映画の場合は脚本家と監督とでシナリオを練るらしい。いや、本広・岡田は二人で練ったみたいだけど、二人で練らない場合も多いみたいなの。その方が多いという話さえある。よほどの大物脚本家でないかぎり、シナリオの決定権は監督が持つ慣習があるらしい。これね、面白いんだけど、脚本家は無名の人だと尊重されないのに比べて、監督は新人でも発言権が強いの。映画の世界での「監督」というコトバにはなぜだかえらく重みが出来上がっちゃってるのよね。脚本に関しても撮影前に「ここはこうしてくれよ」と指示出したり「ここはこう書き替えるからさ」と自分で書いちゃったり、現場で平気でセリフ変えちゃったり「してもいい」ことになんだかなっちゃってる。
ハリウッドの場合はどうなんざんしょ。ぼくも詳しくは知ってるわけでもないんだけど、どうやらその「シナリオ・プロデューサー」が活躍するらしいんだな。書く人でも撮る人でもない、まったくの第三者が「このシナリオはこうしなきゃダメ」とか指示出して練り上げていくみたいなの。
「書く人でも撮る人でもない第三者」というのはとても重要なことだと思う。
例えばぼくの仕事で考えると、「いいコピー」を何案も書く事そのものは経験でできるようになる。ただその中でどれがこの場合最もふさわしいコピーかっていうチョイスは意外に難しい。そこでは一緒に組んだスタッフの意見がすごく重要になるし、スタッフみんなで「これがいいよね」とならないと、じゃあそのコピーにどういうビジュアルがいいのかとか、全体としてのいい表現につながっていかないのよね。本当にいい表現って、たったひとりの天才が作るんじゃなく、何人かの優秀な表現者が集まってつくった方が生まれやすいんだと、ぼくはいつも仕事で実感してる。
たかだか一枚のポスターや15秒の映像でもそうなんだから、1時間半とか2時間とかの映画という表現を作り上げるのに一人や二人の才能に背負わせるのは問題ありありだと思うわけ。
そこでシナリオ・プロデューサー。直接的に表現をするわけではない第三者の意志でシナリオをコントロールするシステムらしいのよね。そういう職種の人がシナリオに責任を持ちながら作り上げ、さらにそのシナリオは「契約書」のように機能し、そうそう勝手に変えちゃダメなことになっとるらしいのよ。
このシステムは万全ではないと思う。単館で上映するような映画だとどんどん個人的な表現に向かっていった方がいいだろうし、北野武や黒沢清あたりには自分でシナリオ書いて撮ってほしいとファンとしては思う。でも商業映画の場合は必要だと思う。ただしやっぱり優秀な人じゃないとアカンけど。
でも日本だって「プロデューサー」という肩書きの人がいるわけでしょ、そういう人はシナリオプロデューサー的な機能も持ってるんじゃないの?と思うよね。ところがどっこい。
日本映画のプロデューサーはまず、いろんな人との関係をまとめるので手いっぱい。とくに役者に関してはこれも全然システマティックになってないんで、役者の所属する会社との関係をうまくまとめるのにてんてこ舞いになっちゃう。「役者行政」なんてコトバまであって、それができればエラそうなプロデューサー面ができちゃうほど。でもその分シナリオのコントロールにまではなかなか手が回らないし、そもそもできない人がほとんど。監督ヨロシクね、となっちゃうらしい。
で、さらにいうと、日本映画は「おれたち映画愛してるじゃん!」てな浪花節で動いてきて、すごく感覚的なところで「いい作品にしようぜ」でしか進んでいかない。さらには「カントク!」がヤクザの組長みたいに崇められてるからシナリオも「カントク!」のセンスひとつで改編・変更になっちゃう。
えーっと、今回ややうまくまとめられなかったけど、要するに日本映画はカントク至上主義でシナリオを作ったり変えちゃったりするからダメだと。それよりもシナリオ・プロデューサーのシステムをとりいれて監督と脚本家にまかせないでやんなよ、と言いたいわけね。
(2000年4月19日)