性差別問題

2-B

その日、他の係でも残業で残る者はいたが、11時には吉沢と卓哉の二人だけになっていた。書類の作成をすっかり終え、背伸びをする卓哉の肩を、吉沢がぽんと叩いた。

「中山君、ご苦労だったわね。」

「いえ、他の人がいないから、仕事がはかどりましたし。」

窓からは夜景が見えた。きらめくビルの灯が、卓哉の今日の仕事の疲れと、これまでの会社員としての苦労を癒そうとして美しく瞬いているように卓哉には思えた。子会社でがんばるのもいいじゃないか。本社にいたときのように情熱的には働けないが、ここで地道に仕事をしていくのもいい。とりあえず、この上司は悪い人ではないし。

「中山君、そう言えば、家遠かったわよねえ。」

「ええ、一時間半くらいかなあ。」

「そう。あたしも遠いのよねえ。だからこんな時はよく、ホテルに泊まるのよ。今日もそうしようかなあ。」

「そうですか。」

なんとなく、ねっとりとしたものを吉沢の言葉に感じはじめていた。昼間のオフィスでのきびきびした会話にはない、どこか粘液質のような、身体にまとわりつくような空気を生理的に感じた。

「…じゃあ、ぼくはそろそろ終電近いんで。」

「あら、あたしを一人置いてくの?ちょっとお酒にでもつきあわない?」

「いえ、ですけど…」

後ずさりする卓哉に、吉沢がにじり寄ってくる。じわじわと近づく様を、卓哉はナメクジのようだと思った。

「中山君ってさあ。彼女なんかいるの?ねえ、誰かつきあってる人いるの?」

「彼女は…いませんが…」

ナメクジが近づくと、その厚化粧から香水がぷーんと臭ってきた。それは決していい臭いとは感じられず、得体のしれない果物が腐った臭いに似ていると卓哉には思えた。

「遅くなったらさあ、あなたもホテルに泊まればいいじゃない。」

ナメクジが手を延ばし、卓哉の腕に触れた。その瞬間、そこからぞわわわわわと鳥肌が起こり、全身にまで広がった。

この女は、自分と寝たいと思っている。だがこっちはそんな気はこれっぽちも起こらない。尊敬はしていた。しかし女性としてはまるっきり魅力を感じない。こうして間近で厚化粧の顔を見ると、醜いとさえ思う。接近してくると、厚化粧でも隠せない吹き出物やらシミやらが目に入ってくる。ああ、なんて汚いんだ。醜いんだ。

しかしこの女はまた自分の上司だ。ここで逆らうと、明日からどうなるのか。どんな目にあわされるのか。査定に響くのだろう。室長らにあらぬことを言うのだろう。この会社にいられなくなるのだろう。30男にどんな仕事があるというのか。会社をやめたら、両親は何と言って嘆くだろう。自分はこの女を拒んではならないのだろうか。

「中山君って、本社に戻りたいんでしょう?あたしけっこう人事に顔が利くのよ。室長にもそれとなく言ってあげましょうか。」

ナメクジはついに身体を押し付けてきた。顔は不細工なのだが身体は豊満で、豊かなバストを卓哉の腕に押しあてる。だがそれは決して卓哉を欲情させず、むしろいよいよねっとりとしてきた空気と、腐った果物の臭いとの相乗効果で吐き気さえもよおす。そして最後にナメクジは卓哉の股間に触手を伸ばした。

「やめろおおおおおおおお!」

卓哉はナメクジを突き飛ばした。どんがらがったーんと音がして、いくつかの椅子とともに吉沢が床に倒れた。その時、身体を強く打ったようだ。腰をさすりながら吉沢が叫ぶ。

「いったー。何すんのよ!」

だがすでに、卓哉は走り出していた。廊下の蛍光灯はすでにいくつかを残して消されており、真っ暗だった。その闇の中を、ひたすら駆け抜けていった。

「会社にいられなくしてやるわよー」

遠くから吉沢の叫び声が聞こえた。だがもはや、会社でどうなろうが、どうでもよかった。とにかく早くあのナメクジから逃げたかった。

エレベーターはとっくに止まっていたが、非常階段を15階から地下一階の夜間出口まで、イッキに駆け降りた。管理室の夜警がきょとんと見送った。

タクシーに乗り込んでも、しばらくぜいぜいと肩で息をしていた。ぜいぜいと息をしながら、吉沢を呪った。吉沢を呪い、竹内を呪い、給湯室の男子社員達を呪い、本社の上司達を呪い、世の中を呪った。そして最後に自分を呪った。

四年制の大学を受けるときに父の言った言葉をふと思いだした。「男は馬鹿でいいんだぞ。馬鹿でいいから早く結婚するのが幸せなんだぞ」

これからは馬鹿になろう、と思った。馬鹿になればこんな目にあわなくてすむのなら、馬鹿になってやろう。

でも今から馬鹿になって、間に合うのだろうかと考えると、暗澹たる気分になってしまうのだった。

(つづく)


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