Michael Day著,尾城孝一訳
1. 序論
未来の予測には危険がつきものである。「完全な紙なしシステム」の実現時期に関するWilfrid Lancasterの21年前の意見は,やや楽観的すぎたようである。しかしながら,インターネットとWorld Wide Webは,ほとんど「高度に成熟した電子情報システム」と言ってよいかもしれない。学術コミュニケーションにおけるインターネットの利用は急速に進んでおり,インターネットを研究成果の配信に利用することにより,伝統的な印刷学術雑誌は終焉に追い込まれるという推測もしばしばささやかれている。
1999年3月に,ノーベル賞受賞者であり,米国国立衛生研究所(NIH: National Institutes of Health)の所長でもあったHarold Varmusが,生物医学分野で発表された研究成果に無料でアクセスできるオンラインサービスの提案書を配布すると同時に,こうした問題に関わる重大な論争が引き起こされた。より詳細な提案書が4月に公表され,5月5日にNIHのWebサイトに掲載された。さらに6月20日には補遺が追加された[2]。多くの関係者をまきこんだ議論と論争を経た後,「PubMed Central」と呼ばれるサービスが8月30日に発表された[3]。
本稿は,印刷雑誌の発展と役割,および電子コミュニケーションの進展がそれに及ぼす影響について概観する。つづいてNIHの提案とそれに対する反対意見のいくつかについて詳しく見ていくことにする。最後に,この新しい環境のなかで図書館が担うべき役割について論じる。
2. 雑誌と学術コミュニケーション
2.1 歴史的背景
まず,印刷雑誌は330年の長きにわたり学術コミュニケーションのなかで特筆すべき役割をはたしてきたことを指摘しておかなければならない。最初の学術雑誌(Journal des scavansと王立科学院のPhilosophical Transactions)は1665年に刊行開始され,当時の研究者が相互に意見のやりとりをするための手段を提供した。18世紀から19世紀初期にかけて,雑誌の性格は徐々に変化していった。その結果,学会報の重要性が相対的に減少し,代わってより専門化した雑誌が新たに創刊されることとなる。これは知識がより多くの専門分野に細分化したことを反映したものである[4]。19世紀末までには,投稿論文のピアレビューといった特徴が多くの分野において標準となり始めた。ピアレビュー誌に掲載された学術論文は,今日まで,Maurice Lineが言うところの「記録と配信のための確立された媒体」として地位を保ち続けている[5]。
2.2 印刷雑誌の役割
にもかかわらず,インターネット時代の到来により,印刷雑誌はもはや学術コミュニケーションの主要な手段として生き残ることはできないのではないかという見解が広まりつつある。たとえば,インターネットは学術論文の配信にとってきわめて便利で効果的な方式を提供してくれる。
電子雑誌の技術的な実現可能性を明らかにした研究プロジェクトは,1980年代にまで溯ることができる[6]。しかしながら,その時点では電子雑誌は「離陸」に失敗している。というのも,コンピュータネットワークはまだ成熟しておらず,ユーザインターフェイスは貧弱で,開発者たちも印刷雑誌が提供する機能と異なる機能について漠然としたアイデアを抱いていたに過ぎなかったからである。なぜ著者は既存の雑誌に投稿するのか,なぜ図書館や他の購読機関は雑誌に多額の費用をかけようとするのか,という疑問に対する真の理由を探ることよりも,新しい双方向的機能やマルチメディアの特徴の探求にあまりに多くの時間を費やしすぎていた。たとえばCliff Mcknightの最近の意見に従えば[7],もし読者(およびその延長としての著者)が「印刷雑誌を使ってできることと少なくとも同等の,望むべくはより以上のことを電子雑誌を使ってできなければ,わざわざ読者および著者が態度を変える誘因は存在しない」ということになる。それゆえ,なぜ雑誌は学術コミュニケーションの環のなかで不可欠な要素としての地位を保ち続けてきたのか,という疑問を常に念頭に置いておく必要がある。それに対する解答として,一つには,ピアレビュー誌は幾つかの異なる要求を満たしてきたという点を挙げることができよう。以下のリストは,Fytton Rowlandが1997年に刊行されたAriadneの論文のなかで指摘した雑誌の必要要件である[8]。
「通常,科学の世界では,第一発見者であること,競争に勝利し発見者としての栄誉を獲得することに多大な重圧がかかる。こうした栄誉を得るためには,科学コミュニティによる承認が要求される。科学コミュニティは,他の研究者による再現試験に必要とされる全ての詳細情報を査読誌上で公表することを求めるのである。そうした上ではじめて,新たな発見は承認され,著者は名声を得ることができる。すべての研究は最終的には公の発表をめざしている。研究補助金を獲得することは、言ってみればまだ投資の段階であり、研究成果を論文として発表し、先取権を獲得することによって初めてこの事業が完結する。その意味で、補助金を獲得することの死活の重要性はそのまま論文発表と先取権獲得の重要性につながっていくのである。」
2.3 印刷雑誌の終焉?
かつてLancasterが予言したように,近い将来学術情報の大半は全て電子的に配信されるようになるという主張が現在も存在する。インターネットは学術コミュニケーションに多大な影響力を及ぼしてきており,伝統的な印刷雑誌は凋落の一途をたどるのではないかという推測が浮上してきている[11]。たとえば,1995年に数学者のAndrew Odlyzkoはほとんどの印刷雑誌は今後10年か20年のうちに消滅するであろうと論じている。彼は学術出版は2つの理由から遠からず電子的配信のメカニズムに移行するであろうと予測している[12]。「ひとつの理由は現行システムの費用増加に対処せざるをえないという経済的な圧力であり,もうひとつは電子出版がもたらす新たな機能が持つ魅力的な吸引力である」。多くの雑誌出版社もこれらの要因を認識しており,現存する印刷雑誌の電子版へのアクセスを提供するWebベースのサービスを開始している。このサービスでは印刷版の活字やレイアウトを保持するポータブル・ドキュメント・フォーマット(PDF)が好んで用いられている。しかしながら電子的コミュニケーションを支持する急進派は,印刷雑誌をWeb上で再現するだけのサービスは十分ではないと考えている。彼らは,なぜ印刷雑誌の現在の姿を新しい媒体のなかで単純に再現しなければならないのか,との疑問を投げかけ[13],インターネットを通じた自己出版(セルフアーカイブと呼ばれることもある)を学術情報の所有権と配信権を研究者自身に取り戻す手段とみなしているのである[14]。
この考えの中心的な提唱者がサウサンプトン大学認知科学センター長のStevan Harnadである。Harnadの信念を支える鍵となる仮定のひとつは,ピアレビュー誌に論文を発表する研究者は,さほど期待できない金銭的な報酬にはほとんど関心がなく,むしろ自分の論文が読まれ,利用され,他の研究の基礎となり,引用されることを望んでいる,ということである[15]。「グーテンベルグ時代」には,著者はHarnadの言う「ファウストの悪魔との取引」を継続せざるをえなかった。出版社との間に交わされたこの契約に基づいて著者は論文の刊行と引き換えに著作権を売り渡さなければならなかった[16]。Harnadの主張によれば,この種の取引は出版が排他的で高価な領域に属していた間は意味があったが,著者がほんのわずかな出費で,もしくは個人的なコストなしに自分の論文を出版できる電子時代には全くふさわしくない。アクセシビリティが向上することによる恩恵,刊行に要する時間の短縮,経費節約の可能性に加えて,Harnadは,ネットワーク出版によって著者は同僚とこれまで以上に効果的に意見交換を行うことができるようなるのではないかと述べている。たとえば,刊行された論文が無料で公開されることにより,即座にコメントや反応を得ることができる。これがすなわち「学術的な空中著述(scholarly skywriting)」というわけである[17]。ポストグーテンベルグ時代を促進するために,Harnad,Odlyzko等は,「既存システムを覆す提案」を発表し,それによって「紙カードの家」を倒壊させようと企てている[18]。Harnad等は,非営利論文の著者は現行の全ての論文テキストをインターネット上で利用できるようにすべきであり,そうすることにより,読者は,後から遅れて刊行される高価な紙の論文ではなく,無料の電子版論文にアクセスするのがあたりまえという環境が成立すると提案している[19]。
この「既存システムを覆す提案」の実地モデルとしてしばしば引用されるのが,ロスアラモス研究所(LANL: Los Alamos National Laboratory)のPaul Ginspargによって設立された「e-printアーカイブ」である[20][21]。1991年8月にオンライン化されたGinspargのサービスは,当初,高エネルギー物理学の分野のプレプリントに対する電子的なアクセスを提供するものであった。それはやがてこの分野における主要な学術コミュニケーションの手段として急速に成長し,物理学全体,数学,さらにはコンピュータ科学をカバーするまでに拡大した。ある物理学者の発言が1994年に引用されている[22]。それによると,このアーカイブはこの分野の情報交換の方式を完全に変えてしまった。「わたしが雑誌を見るのは,ロスアラモスの物理学データベースが出現する以前に発表された論文を探す時だけです。」
3. NIHの最初の提案
NIHの最初の提案の引き金となったのは,部分的にはGinspargによる物理学e-printサーバの成功であった。Varmusはまた研究者が行う出版というものは営利出版とは全く異なる性格を持っているというHarnadの仮説にも同意している[23]。
「...研究者が関心があるのは成果を生み出すことであり,研究成果は,概して,公的および私的な助成金によって支えられている。であるから,研究者の目的は研究成果をできる限り多くの人々に公開することにある。われわれは研究成果の出版によって利益を得ることには何の関心もない。それを公開し,全ての人の目に触れるようにしたいだけである。研究成果の公開は自分のキャリアを高めることやコミュニティにおける科学の発展に役立つ。また,それは生物システムについてより多くのことを学び,疾病に打ち勝つ進歩を成し遂げるというわれわれの究極の目標に寄与することになるのである。」
NIHの最初の草案は,「E-biomed:生物医学分野における電子出版の提案」と名づけられている。これは,NIHが米国バイオテクノロジー情報センター(NCBI: National Center for Biotechnology Information)の活動を通じて,「電子出版サイトの確立をめざした,コミュニティに基づく試みを促進」すべきであるという意志をあらわしたものである。Varmusは以下のように述べている。
「われわれの計画では,E-biomedは,臨床研究,細胞分子生物学,医学関連の行動研究,生物工学,その他生物学と医学に関連する,生物医学の研究を構成する多くのフィールドにおける研究レポートを,永久的にオンラインで,かつダウンロードされたデータによって構築されたアーカイブによって,配信し保存することになる。」
この提案の核となるのは,E-biomedへの論文提出の道筋が2通り用意されているという点である。ひとつは,公式なピアレビューを経て提出する道であり,もうひとつはロスアラモスのe-printアーカイブと同様に最小限のレビューを受けた後に提出する方法である。
NIHの提案は,生物医学分野の研究成果の配信をめざした電子的コミュニケーションの効果的利用について,より広い議論を喚起することを意図したものである。実際,この提案が公表されるや否や膨大な量のコメントが寄せられた。そこには賛成意見[25][26]および反対意見の両方が含まれている。
4. 提案に対する反響
提案に対する批判は以下の4点に集約することができる。
4.1 ピアレビューの重要性
とりわけ,E-biomedのピアレビューなしの「一般レポジトリー」に投稿され、公開される論文の品質に関して懸念が表明された。ある米国の生化学者の意見がNew York Timesの記事に引用されている[27]。「このレポジトリーは必然的に納税者の負担によるジャンクの堆積となるであろう」。New England Journal of Medicineの前編集者であるArnold S. Relmanは,同誌上に注目すべき一論説を発表し,そのなかでNIHの提案は「新しい臨床研究の評価と秩序だった配信を脅かす存在となりかねない」と批判している。同誌の利益を守ることが前提であると認めつつも,この論説は臨床医学と他の学問分野の出版要求にはいくつかの基本的な差異が存在すると論じ,NIHの提案は公益に脅威を与えかねないと述べている[28]。
「公益を守る最善の方法は,注意深くモニターされたピアレビュー,校正,編集上の論評といった雑誌に備わっている既存システムを通じて,雑誌の発行日にあわせて論文を公表することである。臨床研究における誤謬,不正確性,誤解は,基礎科学の研究における誤りよりも一層重大な危険を健康と公共福祉にもたらす。」
Harnadは,Relman宛の電子メールの回答のなかで, E-biomedに対するこれらの異議は不当である反論している。彼はE-biomedの査読付きセクターに投稿される論文はこれまでどおりピアレビューに付されるわけであり,必要があれば編集上の論評を加えることも可能である,と指摘している。Harnadによれば,論文の公表を雑誌発行日にあわせることの困難さなど「ナンセンス」であり,「過ぎ去った紙中心時代の不幸な遅延行為」ということになる[29]。
「...もしそれが単に雑誌の地位と収益を守ろうとする反射的な試みでないとすれば,それはただ単に,紙に印刷する時代の雑誌刊行における全く見当違いで時代遅れの特徴に対して,迷信的に執着していることの表れにすぎない。」
しかしながら,最も権威のある総合医学誌のいくつかは,雑誌が発行されるまでは論文中のいかなる情報も事前に公開してはならないというルールを長年にわたって著者に強要している。たとえば,New England Journal of Medicine誌はIngelfingerルール(発案した編集者の名前に因んでこう呼ばれている)と称されるポリシーを採用している。このルールによれば,投稿された原稿の実質的な内容がすでに他誌に投稿されるか,あるいはどこかで発表されている場合,その原稿の出版は認可を受けることができない。IngelfingerルールはNew England Journal of Medicine誌が他のライバル誌によって「出し抜かれる」ことを防ぎ,情報の秩序だった配信を促すことにより生物医学研究コミュニティの規律を維持するために考案された。Franz Ingelfingerは,競争相手が「未刊行の研究成果をプレス会議の場やインタービューに応じて発表したりすることによって,公表したという既成事実や,ひいてはプライオリティを獲得するために」これらの約束事を無視した場合,一般の研究者はおそらく不快感を味わうであろう,と述べている[30]。しかしながら,New England Journal of Medicine誌は,学術会議での発表や刊行された抄録の類は例外扱いしている。ただし投稿されたオリジナルの論文の内容と比べてより詳細な情報を事前に配信してならないと釘を刺すのを忘れてはいない[31]。
論文の出版前にその内容を開示することを禁ずる方針は,インターネット時代においてもとりわけ査読を受けていないプレプリントとの関係で根強く残っている。1995年のNew England Journal of Medicine誌の論説のなかでは,いかなる研究といえどもピアレビューを受け,それに従って修正され出版されない限り不完全なものであり,この原則は電子的なプレプリントにも同様にあてはまると強調されている[32]。
「というわけで,図や表を含む原稿をインターネット上の誰もがアクセスできるホストコンピュータ上に投稿する行為は事前の公表とみなされる。」
こうした姿勢はこれまで何度か批判にさらされてきた。Ronald LaPorteとBernard Hibbittsは,論文のコピーライトが出版社に譲渡される以前にもかかわらず事前の公表を禁止することは,自分の研究に関して自由に振る舞いたいという研究者の権利を妨害することにつながると,主張している[33]。それは確かに生物医学分野における電子プレプリント文化の発展を妨げることになりかねない。しかしながら,BMJ誌の最近の論説は,Bostonに本拠地を置く同業誌にくらべて穏健な立場をとっている。この論説は,電子プレプリントについては会議における発表や抄録と同等の扱いをすべきであると述べている。Tony Delamotheは,事前の配信に関する既存の例外規定のなかにプレプリントも含めるべきであると提案している[34]。
Varmusは, 6月20日付けの補遺のなかで品質問題について取り上げ,E-biomedのピアレビューなしのレポジトリーは確かに「取るに足らぬ不正確な情報」の配信を促すことになるかもしれないが,「そうした情報をパブリックドメインに投稿することは,研究者としての評判を失墜させることに直結するので,そのようなことを意図的に行う研究者はほとんど存在しないであろう」と述べている。
4.2 NIHの役割
NIHは単にコミュニティ・ベースの試みを支援するだけである,とVarmusは断言しているにもかかわらず,この提案はアメリカ合衆国連邦政府の権力と影響力の拡張につながりかねないとの批判が集中した。Science誌の編集委員であるFloyd E. Bloomは,「強大な研究財団の後押しによる,政府の支配下の独占的アーカイブが,果たして既存の雑誌のヒエラルキー以上に科学の進歩に貢献できるだろうか」との疑問を呈している[35]。また,NIHの提案は「押しつけがましい」との批判も存在する[36]。American Association of Immunologistsの会長であるMichele Hoganは,NIHは「研究成果の唯一の配信者となり,ピアレビューの全責任を担うことになりかねない」とコメントしている。その結果,科学コミュニティは「政府からのピアレビューの独立性を失うことになる」と述べている[37]。Varmusはこうした批判に対して,提案されたシステムはNIHが所有するものではなく,それは国際的な科学コミュニティが「幅広くその運営と管理に参画する」ことによってはじめて機能するものであると答えている。Harnadはさらに,いかなる一極集中も成立しないであろうと述べている[38]。
「多様な雑誌は,確かに現存するヒエラルキーを包含するかたちで,著者と読者のために存在し続けるであろう。それが政府によって管理されることはありえない。(これまでどおり論文の品質は,著者と同様に無料奉仕している査読者によって保証されることになる。)」
4.3 既存雑誌との競合
NIHの提案は,既存の雑誌と競合しその土台を揺るがしかねない,との批判も集中している。Nature誌のある論評は,何人かの識者の言葉を引用し,この提案は「不健全な一極集中を作り出し,既存雑誌の多様性を侵害し,最良の論文の獲得をめぐる雑誌間の健全な競争を阻害するおそれがある」と述べている[39]。Varmusはそれに反論し,とりわけ「厳格な審査と注意深い編集によって評判の高い」雑誌がこのシステムに参加してほしい,と述べている。
4.4 財政
E-biomedの提案に対するもっとも重要な批判には,その財政面に関する曖昧さに関するものも含まれている[40]。このレポジトリーは現在雑誌を刊行し,その収入に依存している学会の活力を奪いかねないとの意見に対しては,学会は他の収入源をさぐるべきであるとの反論が呈されている[41]。
「学会は,全ての雑誌へのアクセス環境を向上させる出版の革命を遅らせているとみなされるような態度をとるべきではない。」
このレポジトリーに必要とされる費用と,誰がそれを負担するのかという疑問に対しては,この提案は曖昧さを残している。投稿された論文へのアクセスが無料で提供されるとすると,費用は他のメカニズム,おそらくは著者に課せられる料金によってまかなわれることになろう。Varmusは以下のように提案している。
「わかりやすい戦略としては,著者に料金を課す方法が考えられる。投稿の際は少額を,受理された際にはそれよりも多額の料金を著者から徴収するやり方である。」
5. PubMed Central
8月末、現在「PubMed Central」として知られるサービスについての改定案がNIHから発表された。PubMed Centralは現存するPubMed生物医学文献データベースに統合される予定であるが,将来的に生命科学の諸分野をカバーする拡張版電子レポジトリーが構築されたあかつきには,その構成要素のひとつにすぎなくなるであろう。PubMed Centralは2000年1月にサービスを開始することになっている[42]。
PubMed Centralの提案はE-biomedに対する批判の幾つかに応え,出版社の懸念の正当性を認めたものとなっている。オリジナルの草案は論文は受理後直ちにレポジトリーに追加されることを想定していたが,PubMed Centralの提案では,コンテンツのレポジトリーへの提供は参加出版社の裁量に任され,受理後いつでも構わない,と修正された。コピーライトに関しても急進性をやや失い,「参加者の決定により,寄託団体(すなわち出版社,学会,編集委員会)が所有する場合もあれば,著者自身が保持する場合もありうる」とし,この困難な問題を回避したかたちになっている。
6. 図書館の役割
PubMed Centralのようなイニシャティブは,もし雑誌の購読費と管理費を削減することにつながり,情報の「無料」配信を助長することになれば,図書館にとって大変魅力的な計画である。しかしながら,同時にあらたな課題を提起することにもなる。出版社と同様に,図書館もまた学術コミュニケーション・プロセスのなかで単なる仲介者にすぎない。研究者が図書館を迂回する効果的な電子コミュニケーション・システムの案出に成功したあかつきには,図書館がなすべき役割はほとんど残されていないのではないか。
しかしこの推測はあまりに悲観的過ぎる。ひとつには,情報配信のために電子技術が利用される割合が増加したとしても,それは必ずしも印刷情報が直ちに消滅することを意味するわけではない。Odlyzkoは,印刷物のコレクションは少なくとも将来的に電子化されるまではこれまでどおり維持していく必要があるが,その過程にはかなりの時間を要するであろう,と指摘している[43]。いずれにしても,学術雑誌は電子化されるであろう。それと同時に印刷物の情報も長期に渡り存続しつづけるであろう。たとえば,歴史家のRobert Darntonは,電子技術はグーテンベルグの発明の代替物ではなく,それを補う技術として利用されていくであろう,という意見を述べている[44]。
また,図書館は雑誌を含む広範囲な電子情報サービスの門番(ゲートキーパー)としての役割を担っていくことになろう。たとえば,図書館(あるいは図書館コンソーシアム)は,単なるハードコピーの購入だけではなく,出版社を相手にした電子コンテンツのライセンス交渉に習熟する必要がある[45]。この種の活動がこれからより重要になっていくであろう。
6.1 情報資源の発見とメタデータ
図書館あるいは他の情報専門家が関心をもつ分野のひとつは,利用者が多様なオンライン学術出版物を発見しそれにアクセスする環境を整備することである。PubMed Centralは生物医学の分野に限ってみても,より広大な情報ランドスケープの一部分に過ぎない。VarmusはPubMed Centralに蓄積されたすべての論文はひとつのサーチエンジンによって全て検索可能である,と自信をもって述べているが,今後はPubMed Centralの検索を図書館目録やインターネット情報ゲートウェイの検索と結合するような新しいサービスが求められるに違いない。ともかく,PubMed Centralのサーチエンジンは不断に成長をつづける大規模リソースへのアクセスを提供する必要がある。American Society for Investigative Pathologyは「研究者による情報資源のナビゲートを支援するようなサーチエンジンを創造するための斬新なアプローチに努力が傾けられるべきである」と提案している[46]。
6.2 長期的保存
もうひとつの潜在的な役割は,PubMed Centralやロスアラモスのe-printアーカイブに蓄積された論文の長期保存を支援することであろう[47]。ただしこの役割については疑問視する向きもある。印刷雑誌については,図書館は総体的に分散アーカイブとして機能し,そこに具現化された知識を保存している。Varmusは各所に「ミラーサイトが作られ」,テープやCD-ROM,あるいは「長期保存に耐えうる紙」にバックアップが作成されるので,PubMed Centralに蓄積された大量の論文データが失われる危険は遠のく,と述べている。この手だては安全のように見えるが,結局のところNIHは単に技術的な助言と財政面での支援を行うにとどまると想定されているので,どこかの機関が責任を持ってPubMed Centralに投稿された論文データを保存すると明言しない限り,不安は拭いきれない。少なくとも,PubMed Centralのようなレポジトリーやe-printサーバは長期的サービスを保証する最善の方策を追求していくべきであろう。
7. 結論
NIHのPubMed Centralの提案によって,たしかに生物医学コミュニティは情報の配信に関する電子ネットワークの潜在力に注目し始めた。しかしながら,草案の公表によって引き起こされた論争は,コミュニティのなかに深刻な意見の対立や,発表される論文の品質について懸念が存在することを明らかにした。この論争はまた,物理学者たちの試み(ロスアラモスのe-printアーカイブの利用に関連して)と他の分野の試みを安易に同等視することは危険であることを証明している。Edward Valauskasが述べるように[48],「高エネルギー物理学のように急速に進歩する分野における学術コミュニケーションを人文科学,社会科学,その他物理学以外の分野の研究者のアカデミックな伝統的な議論と同レベルで論じることは危険である。」PubMed Centralが果たして生物医学分野における学術コミュニケーションにいかなる影響を及ぼしていくか今後も興味深く見守っていきたい。
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last updated: 15th March 2001