1665年に世界で最初の学術雑誌が創刊されて以来300年以上にわたって、学術雑誌は、研究論文の配信とその品質保証という、学術コミュニケーションにとって不可欠の機能を果たしてきました。しかしながら、ここ数年来、この学術雑誌が危機的な状況に陥りつつあると言われております。
学術雑誌の問題点を整理してみますと、まず、論文の投稿から刊行までのタイムラグ、タイトル数と論文数増加による文献探索の困難さ、さらには、一般的な物価上昇率をはるかに上回る値上がりなどが雑誌の抱える問題点として指摘されております。
なかでも最後に挙げた、価格の上昇につきましては、現在の大学図書館にとって最も大きな課題のひとつとなっていることは、言うまでもありません。
価格の上昇の原因をつきつめていきますと、20世紀の半ばに登場いたしました「ビッグサイエンス」にまで遡ることができると考えられます。このビッグサイエンスというのは、大規模プロジェクト研究の総称でありまして、「マンハッタン計画」ですとか「アポロ計画」などがその典型的な例と言えます。ビッグサイエンスの登場と共に、研究者の数が増加して研究競争が激化し、生産される論文の数も著しく増加しました。また、研究領域の細分化が進んだ結果、学術雑誌のタイトル数も大幅に増加していくことになります。
論文数の増加は、雑誌1冊当たりのページ数を増やし、刊行経費の上昇につながり価格を引き上げる一因となっています。一方、タイトル数の増加は1誌当たりの購読者数の減少をもたらし、ますます価格が上昇する原因となっていきます。そして、価格の高騰が購読者数を減少させ、購読者数の減少がさらなる価格の高騰を招くという閉塞状態に陥っているというのが学術雑誌の現状と言えるかと思います。
ところで、ビッグサイエンスによる研究成果の急増とともに、それまでの学会や大学出版局が発行する雑誌に加えて、あらたな流通経路を求める声が高まってきました。そして、こうした需要に応えるために、特に科学技術や医学の分野において、商業出版社が学術雑誌の市場に積極的に進出し、現在では市場の大部分を独占するに至っております。こうした商業出版社による雑誌市場の独占や寡占的な価格政策もまた、雑誌の値上がりを進行させている有力な要因と考えられております。
さて、大学図書館は、こうしたとどまるところを知らない雑誌の値上がりに対処するために、皆さんご存知のように、これまでにさまざまな対策を講じてきております。例えば、財政当局に雑誌購入費の増額を要求したり、単行本の購入予算を流用することによって、雑誌コレクションの維持に努めてきました。いよいよコレクションの維持が困難になってくると、大規模なタイトルの削減を実施し、そして、それを補うために、ILLやドキュメント・デリバリサービスの利用を積極的に推進してきたわけであります。しかしながら、こういった大学図書館の努力も残念ながら限定的な効果をあげているにすぎないというのが現状のようであります。
こうした雑誌の危機が進行していた1990年代というのは、同時にインターネットの普及とそれを利用した電子出版が急速に広まった時代でもあります。こうした技術的な発展を背景として、商業出版社は既存の印刷雑誌の電子ジャーナル化、ウェブ化を積極的に推し進めてきました。アメリカの研究図書館協会が出版している電子ジャーナルのディレクトリによりますと、1991年にわずか7タイトルにすぎなかった査読付きの電子ジャーナルは、1997年には1,049タイトルに増加し、2000年には3,915タイトルに達しております。
従来の印刷雑誌に較べると、ここに挙げておりますように、電子ジャーナルは多くのメリットを備えております。
また、電子ジャーナルの生産コストは、印刷や製本、輸送といった費用が要らなくなるために、冊子体のそれよりも低く抑えることができる。その結果、当然、電子ジャーナルの価格も安くなるのではないかという期待も寄せられてきました。
しかしながら、実際のところは、冊子体と電子ジャーナルのバンドル販売、抱合せ販売を続ける出版社の価格政策によって、そもそも電子ジャーナルを単独で購入するのがなかなか難しい。また、たとえ電子ジャーナル単独での購入が可能である場合でも、その価格は冊子体を基準とした極めて高い水準にとどまっている、そういった例がほとんどであります。結局のところ、雑誌の販売を通じて最大の利益を上げることを目標とする、営利的な出版社による寡占状態が続いている限り、たとえ雑誌の媒体が紙からウェブに代わったとしても、これまでの恒常的な価格上昇という構図が改善される見込みはほとんどなきに等しいと言ってよいでしょう。
一方、ここ数年来、学術論文の著者でありまた利用者でもある研究者自身、学術コミュニケーションの第一の利害関係者である研究者自身による、学術流通の仕組みを根底から変えていこうという動きが活発化してきております。例えば、
本当はこういった動向につきまして、それぞれ詳しくご紹介したいのですが、時間に限りがありますので、今日は、このなかからe-printアーカイブによる学術コミュニケーションの変革の動き、これをとりあげてみたいと思います。
e-printアーカイブというのは何かと申しますと、e-print、電子論文を集めて保管するインターネット上のサーバでありまして、研究者は、既存の雑誌を迂回してe-printを直接アーカイブに投稿することができます。この場合はプレプリントになります。また、雑誌に投稿して審査を通った後の論文につきましても、出版社の許諾が得られた場合は、これをアーカイブに蓄積することも可能です。この場合はポストプリントということになります。
こうしたe-printアーカイブを代表するのが、1991年にロスアラモス研究所のPaul Ginspargによって創設されたarXiv.org e-Print archiveであります。arXivは当初、高エネルギー物理学分野のプレプリントを電子的に提供する役割を担っておりましたが、現在では、物理学全般、数学、さらにはコンピュータサイエンスなどの分野もカバーするまでに至っております。
このロスアラモス研究所のarXivには、現在155,000件を越えるe-printが蓄積されておりまして、昨年1年間だけでも、30,000件もの論文が新規に投稿されております。またその利用状況ですが、1日のアクセス数は110,000件から130,000件に達している。 2000年1年間の推定ダウンロード数も約1,300万件に及んでおりまして、物理学や数学分野の研究者にとってもはや必要不可欠の研究ツールとなっていると言っても過言ではないかと思います。
雑誌と比較した際のe-printアーカイブのメリットを考えてみます。
まず第一に研究成果の迅速な配信が可能であるという点が挙げられると思います。雑誌による伝統的なコミュニケーションにおいては、著者が論文を執筆してから、それが利用者に届くまでには、相当の時間が必要とされます。まず、著者は論文を執筆しそれを出版社のある特定の雑誌に投稿する。出版社はそれを査読し、編集を加えて、雑誌として発行する。発行された雑誌は取次店を経由して、図書館に届く。これでやっと利用者は論文を読むことができるようになるわけです。冒頭に述べましたように、このタイムラグがですね、現在の学術雑誌の大きな問題点のひとつになっている。
それに対して、e-printアーカイブを使ったコミュニケーションの場合ですと、途中の仲介プロセスをすべてスキップして、研究者同士のpeer-to-peerの迅速なやりとりが実現するわけです。
また、e-printアーカイブは雑誌に較べると格段に安いコストで運営することができ、わずかな補助金によって経費を賄うことができる。勿論、e-printアーカイブには誰もが無料で投稿でき、誰もが無料でアクセスできる。経済性の面から見ても、雑誌にまさっていると言うことができるかと思います。
一方、e-printアーカイブの最大の欠点として、論文の品質保証の機能を備えていないという点が度々指摘されてきました。しかしながら、この欠点につきましても、オーバレイジャーナルと呼ばれる雑誌との連携によって、改善される可能性が出てきました。
オーバレイジャーナルというのは、論文のデータそのものを自分では持たずに、e-printアーカイブへのハイパーリンクのみを提供する雑誌のことでありまして、その一例としてAnnals of Mathematicsという雑誌があります。この雑誌の目次ページに掲載されている論文のデータそのものは、実際にはロスアラモス研究所のサーバ上に蓄積されている。ここをクリックすると、ロスアラモスのサーバにジャンプして、論文情報が表示されるという仕組みになっています。論文データの蓄積と配信をe-printアーカイブに頼る代わりに、Annals of Mathematicsの方は、査読を通じて、このe-printに品質の保証を与えている。すなわち、従来の雑誌が兼ね備えていた論文の配信と品質保証という2つの機能がここでは完全に切り離されて、e-printアーカイブとオーバレイジャーナルがそれぞれを分担するという新しいモデルが提示されているわけであります。
ロスアラモス研究所のアーカイブの成功に刺激されるかたちで、その後、以下のようなさまざまなe-printアーカイブが生まれております。
また、最近の動きとしては、Open Archives Initiativeというグループが組織されておりまして、複数のe-printアーカイブを相互に利用するためのフレームワークの確立をめざした活動を開始しております。
このOAIグループが提唱するモデルに基きまして、学術コミュニケーションシステムの将来の姿を描いてみたいと思います。
将来の学術コミュニケーションを支えるモデルでありますが、論文の原データとその上に展開されるオーバレイとしてのサービスという2つの層から構成されるのではないかと考えられます。(モデル図)
まずデータ層の方ですが、ここには、分野別アーカイブ、大学などの学術機関毎のアーカイブ、あるいは研究者個人のアーカイブが位置する。この層の主な機能は研究者から投稿された論文データの蓄積と流通でありまして、データ層の論文には誰もが無料でアクセスできる。既存の雑誌が担っていた学術論文の配信機能は、この層のe-printアーカイブに取って替わられることになります。
一方サービス層では、データ層に保管された論文を基にして、各種の付加価値をもったサービスが提供されます。サービスの例としては、査読や編集による品質保証や、複数アーカイブの横断検索、引用文献リンキング、カレントアウェアネスなどが考えられます。論文データをパッケージにして「雑誌」という形で刊行するというのもサービスのひとつと位置づけられる。ここで展開されるサービスには有料のものと無料のものが混在しておりまして、サービスの質と価格による自由な競争が行われる。
データ層に蓄積された論文データに基づいて、こういったさまざまなサービスを構築するには、個々のアーカイブを相互に利用するための何らかのプロトコルが必要とされます。このプロトコルとして現在有力視されているのが、先ほど紹介いたしましたOAIが提唱するMetadata Harvesting Protocolであります。それぞれのe-printアーカイブがこのプロトコルに準拠したインターフェイスを実装しておくことによって、サービスを提供する側は、複数のアーカイブから必要に応じて論文のメタデータを収集し、そのメタデータに基いて、各種のサービスを構築することが可能となるわけです。これまでに既に主だったe-printアーカイブはOAIへの準拠を完了しておりまして、複数アーカイブの横断検索といったサービスも試験的に公開されております。その一例をご紹介したいと思います。Arcというアーカイブの横断検索のサービスです。
さて、今後近い将来に、こうしたモデルに基いた学術コミュニケーションが成立するかどうか、につきましては、現段階で予測するのは非常に困難なことであります。が確かなことは、学術流通のシステム自体が今まさに大きな転換期を迎えているということであります。最後にこうした転換期における大学図書館の課題についてまとめておきたいと思います。
まず当面は、やはり既存の電子ジャーナルの導入の拡大と利用環境の整備を進める必要があると思います。そのためには、コンソーシアムが有効な手段となることは、欧米の図書館の先進的な活動によって証明されています。日本でも、国立大学図書館の日本イデアル・オープン・コンソーシアムや、国立情報学研究所のナショナルサイトライセンスの試みなど、コンソーシアム化に向けた取組みが始まっております。今後はこうしたコンソーシアムによる活動をさらに推進し、電子ジャーナルの購買力と出版社との交渉力の強化を図っていく必要があると考えます。
また、今後は研究者コミュニティとの相互理解と連携を深め、研究者自身によるさまざまなイニシャティブを支援していくことも当然求められてくると思います。既にアメリカでは1998年にSPARCという組織が結成され、大学図書館と研究者コミュニティが協力して商業出版社が独占する雑誌市場に競争原理を導入しようという試みを開始しておりますが、日本の大学図書館もこうした活動との協力、連携をさぐっていくべきだと考えます。
最後に、将来の新たな学術コミュニケーションモデルのなかで、一体どのような役割を大学図書館が果たしていけるのか、また果たすべきなのか、それを今から真剣に考えておく必要があると思います。
以上の点を課題として指摘いたしまして、発表を終えたいと思います。
本日の発表で使用いたしましたこのPowerPointのプレゼンテーションにつきましては、このURL(http://home.catv.ne.jp/rr/ojiro/scomm.ppt)にアーカイブしてありますので、関心のある方はぜひ後ほどご覧になっていただきたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。